【蘇我韓子】
生年月日:?〜465年(雄略天皇9年)
干支:未詳
星座:未詳
時代:古墳時代
治世:第19代・允恭天皇
第20代・安康天皇
第21代・雄略天皇
名前:蘇我韓子(ソガノカラコ)
関連氏族:皇族、蘇賀氏、蘇我氏、宗我氏
母:未詳
●大化の改新時(645年)に成立する氏制度が成立する前で、氏・カバネは未成立であるため、「蘇賀氏、蘇我氏、宗我氏」というウジ名のような冠称は記紀編纂時の氏姓制度の知識に基づいて付されたものになる。
●“韓子”や“高麗”など、朝鮮半島と関係する文字が見える。祖先・武内宿禰は神功皇后が起こした朝鮮征伐に関わった中心人物でもあるので、朝鮮半島と関連性が考えられる。また、“高麗”を駒とし、馬子という名前。さらには、蘇我氏の本貫である、奈良県橿原市曽我にある南曽我遺跡からは、5世紀後半から末頃の馬墓が発見されており、韓子が騎馬戦で活躍した時期と時期が重なっているなど、馬との関係が強いことが伺える。
●雄略天皇9年(465年)3月、雄略天皇の命で紀小弓、大伴談、小鹿火宿禰と共に大将に任じられ、新羅が百済地域に進出して城を奪い対馬海域を押さえて倭国と高句麗との交易を妨害し始めたことに対し、新羅征伐のために朝鮮半島へ渡った。新羅王を一時敗走させるほど奮戦した中で小弓は同月に死去してしまう。代わりにやってきたのが、小弓の子・紀大磐だが、大磐は父の兵馬を引き継ぐに飽き足らず、小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めて、小鹿火宿禰と対立した。小鹿火宿禰は、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると韓子に警告し、彼も大磐と対立するようになった。それを知った百済の王は、二人の仲を保とうと、大磐と韓子を百済との国境まで呼び出した。その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、とっさに大磐が射返したところ、その矢が当たった韓子は落馬して河で溺れ死んだ、とされる。
●雄略天皇9年に死んだとすると、少なくとも、第19代・允恭天皇の御代には生まれていたと考えられる。
【妻:未詳】
生年月日:未詳
干支:未詳
星座:未詳
時代:古墳時代
治世:第19代・允恭天皇
第20代・安康天皇
第21代・雄略天皇
名前:未詳 - 高句麗の女性
関連氏族:高句麗人
父:未詳 - 高句麗人
母:未詳
男子:蘇我高麗(ソガノコマ)
●子・高麗は、母親が高句麗の女性だったという説がある。