top of page



【天孫族】

​天皇家 宮家 平氏 源氏 出雲国造 

天皇 宮家 平氏 源氏 藤原氏 秦氏 東漢氏 千家 神社 出雲国造 

【歴代天皇】

●古代の日本では、ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といったが、天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった。

「天皇」は大和朝廷時代の大王が用いた称号であり、奈良時代から平安時代にかけて政治・祭祀の頂点だったが、摂関政治・院政・武家の台頭により政治的実権を失っていった。

室町時代には多くの宮中祭祀の廃絶もあり劣位となったが、「江戸時代末に尊王論が盛んとなり、王政復古、帝国憲法における天皇へとつながった」といわれる。
戦後の日本国憲法においては「日本国および日本国民統合の象徴」と規定された。天皇は憲法が限定的に列挙している国事行為のみを行い、国政[要曖昧さ回避]に関する権能は一切ない。
世界で一番長く血統が続いている王家と言われていて崇敬されている。

初代神武天皇 2代綏靖天皇 3代安寧天皇 4代懿徳天皇 5代孝昭天皇 6代孝安天皇 7代孝霊天皇 8代孝元天皇

 

9代開化天皇 10代崇神天皇 11代垂仁天皇 12代景行天皇 13代成務天皇 14代仲哀天皇 15代応神天皇

16代仁徳天皇 17代履中天皇 18代反正天皇 19代允恭天皇 20代・安康天皇 21代雄略天皇 22代清寧天皇

 

23代顕宗天皇 24代仁賢天皇 25代武烈天皇 26代継体天皇 27代安閑天皇 28代宣化天皇 29代欽明天皇

30代敏達天皇 31代用明天皇 32代崇峻天皇 33代推古天皇 34代舒明天皇 35代皇極天皇 36代孝徳天皇

37代斉明天皇 38代天智天皇 39代弘文天皇 40代天武天皇 41代持統天皇 42代文武天皇 43代元明天皇

 

44代元正天皇 45代聖武天皇 46孝謙天皇 47代淳仁天皇 48代称徳天皇 49代光仁天皇 50代桓武天皇

 

51代平城天皇 52代嵯峨天皇 53代淳和天皇 54代仁明天皇 55代文徳天皇 56代清和天皇 57代陽成天皇

 

58代光孝天皇 59代宇多天皇 60代醍醐天皇 61代朱雀天皇 62代村上天皇 63代冷泉天皇 64代円融天皇

 

65代花山天皇 66代一条天皇 67代三条天皇 68代後一条天皇 69代後朱雀天皇 70代後冷泉天皇 71代後三条天皇

72代白河天皇 73代堀河天皇 74代鳥羽天皇 75代崇徳天皇 76代近衛天皇 77代後白河天皇 78代二条天皇

 

79代六条天皇 80代高倉天皇 81代安徳天皇 82代後鳥羽天皇 83代土御門天皇 84代順徳天皇 85代仲恭天皇

 

86代後堀河天皇 87代四条天皇 88代後嵯峨天皇 89代後深草天皇 90代亀山天皇 91代後宇多天皇 92代伏見天皇

 

93代後伏見天皇 94代後二条天皇 95代花園天皇 96代後醍醐天皇 97代後村上天皇 98代長慶天皇 99代後亀山天皇

 

北1代光厳天皇 北2代光明天皇 北3代崇光天皇 北4代後光厳天皇 北5代後円融天皇 100代(北6代)後小松天皇

 

101代称光天皇 102代後花園天皇 103代後土御門天皇 104代後柏原天皇 105代後奈良天皇 106代正親町天皇

 

107代後陽成天皇 108代後水尾天皇 109代明正天皇 110代後光明天皇 111代後西天皇 112代霊元天皇

 

113代東山天皇 114代中御門天皇 115代桜町天皇 116代桃園天皇 117代後桜町天皇 118代後桃園天皇

 

119代光格天皇 120代仁孝天皇 121代孝明天皇 122代明治天皇 123代大正天皇 124代昭和天皇 125代上皇

126代今上天皇

◉世襲親王家◉

世襲親王家とは、南北朝時代から江戸時代の日本の皇室において、当代の天皇(今上天皇)との血統の遠近に関わらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた“閑院宮、有栖川宮、桂宮、伏見宮の”四つの宮家をいう。定親王家ともいう。

【閑院宮当主(世襲親王家)】

代・閑院宮直仁親王 2代・閑院宮典仁親王 3代・閑院宮美仁親王 4代・閑院宮孝仁親王 5代・閑院宮愛仁親王 

 

6代・閑院宮載仁親王 7代・閑院宮春仁王

【有栖川宮当主(世襲親王家)】

初代高松宮好仁親王 2代後西天皇 3代有栖川宮幸仁親 4代有栖川宮正仁親王 5代有栖川宮職仁親王

6代有栖川宮織仁親王 7代有栖川宮韶仁親王 8代有栖川宮幟仁親王 9代有栖川宮熾仁親王 10代有栖川宮威仁親王

【桂宮当主(世襲親王家)】

初代八条宮智仁親王 2代八条宮智忠親王 3代八条宮穏仁親王 4代八条宮長仁親王 5八条宮尚仁親王

6代作宮 7代京極宮文仁親王 8代京極宮家仁親王 9代京極宮公仁親王 10代桂宮盛仁親王 11代・桂宮節仁親王

 

12代・桂宮淑子内親王

【伏見宮当主(世襲親王家)】

初代・伏見宮栄仁親王 2代・伏見宮治仁王 3代・伏見宮貞成親王 4代・伏見宮貞常親王 5代・伏見宮邦高親王

6代・伏見宮貞敦親王 7代・伏見宮邦輔親王 8代・伏見宮貞康親王 9代・伏見宮邦房親王 10代・伏見宮貞清親王

11代・伏見宮邦尚親王 12代・伏見宮邦道親王 13代・伏見宮貞致親王 14代・伏見宮邦永親王 15代・伏見宮貞建親王 

 

16代・伏見宮邦忠親王 17代・伏見宮貞行親王 18代・伏見宮邦頼親王 19代・伏見宮貞敬親王 20代・伏見宮邦家親王 

 

21代・伏見宮貞教親王 22代・伏見宮貞愛親王 23代・伏見宮邦家親王(再継承)​ 24代・伏見宮貞愛親王(再継承)

 

25代・伏見宮博恭王 26代・伏見宮博明王​

【久邇宮家当主】

初代・久邇宮朝彦親王 2代・久邇宮邦彦王 3代・久邇宮朝融王 4代・久邇邦昭

【東久邇宮家当主】

皇位継承権を持つ皇族男子の減少により、男系男子の皇族復帰が議論されているなか、養子対象で最も有力視されている。

初代・東久邇宮稔彦王 2代・東久邇宮信彦王 3代・東久邇征彦

【賀陽宮家当主】

初代賀陽宮邦憲王 2代・賀陽宮恒憲王 3代・賀陽宮邦寿王 4代・賀陽宮治憲 5代・賀陽正憲

【梨本宮家当主】

初代・梨本宮守脩親王 2代・梨本宮菊麿王 3代・梨本宮守正王 4代・守正王妃伊都子 5代・梨本徳彦 6代・梨本隆夫

【竹田宮家当主】

初代・竹田宮恒久王 2代・竹田宮恒徳王 3代・竹田宮恒正王

 


【明治神宮宮司】

​初代・一条実輝 2代・一戸兵衛 3代・有馬良橘 4代・藤田尚徳 5代・鷹司信輔 6代・甘露寺受長 7代・伊達巽 8代・高沢信一郎

 

9代・福島信義 10代・外山勝志 11代・中島精太郎 12代・九条道成

【神部直 粟鹿神社歴代祭主(出雲族)】

●神部氏は、粟鹿神社粟鹿大明神元記』に登場する、「神部」(ミワベ)をの名とする出雲

粟鹿大明神元記』は、708年(和銅元年)に粟鹿神社祭主の神部直根麻呂が勘注上申した竪系図で、京都九条家の秘庫に蔵されていたものを、昭和30年に是澤恭三博士が発掘されたもので、現在宮内庁書陵部に保管されている。

●粟鹿神社の神主は、素戔鳴尊、大国主神の後裔である神部氏であり、三輪氏と同族で、古事記における出雲神の系譜を持つ。

さらに、『粟鹿大明神元記』の中に、「天美佐利命を祀り、氏と神職を定めるにあたって、大和国の大神神社の氏人(三輪氏)を派遣した。」とあるので、神部直は、三輪氏、大神氏から派生した近縁同族であることがわかる。

●第11代垂仁天皇の時代に、天美佐利命が荒振る神であるために大彦速が朝廷に申し出て祀ることになった。

●第13代・成務天皇の時に、神部速日が神を祀っていたことで、神部直(みわべのあたい)の姓を賜った。

古墳時代から8世紀前半に勢力を持ち、代々粟鹿神社の祭主を務め、当主によっては但馬国造に任じられた豪族。

​祖先に大国主(饒速日)と太田田根子がいる

●粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡であるという。

​円墳は皇族の墓である可能性が高いと言われている。(天皇は八角形)

粟鹿神社粟鹿大明神元記』によると、神部忍はの神功皇后の御代に、「宝蔵を立て、神宝の物を収めた。そして、初めて祭主の忌を始めた」と記されている。この宝蔵が粟鹿神社の始まりではないだろうか。

【天美佐利命祭主

大彦速 → 武押雲 → 猛日 → 神部速日

粟鹿神社 祭主

神部 忍 → 神部伎閉 → 神部奈久 → 神部宿奈 → 神部二身 → 神部小椅 → 神部都牟自 → 神部萬侶 → 

 

神部根マロ

桂宮 当主(世襲親王家)
伏見宮
久邇宮
東久邇宮
賀陽宮家当主
梨本宮家当主
竹田宮
神部直
明治神宮宮司

【上宮王家】

●聖徳太子を中心に、兄弟、子、配偶者などを「上宮王家」言う。

643年12月30日(皇極天皇2年11月11日)に蘇我入鹿が起こした、上宮王家襲撃事件で山背大兄王と共に多くの一族が自害した。

聖徳太子 来目皇子 山背大兄王

【別天津神】

●別天津神は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々である。

●初代から3代までは造化三神という。

初代・天御中主 2代・高皇産霊 3代・神皇産霊 4代・宇摩志阿斯訶備比古遅
 5・天之常立

【源氏】

●源氏は、日本の天皇の皇子・皇孫の中から臣籍降下し、「源」の本姓を授けられた氏族を指す。第52代・嵯峨天皇以降に現れた。

嵯峨源氏 仁明源氏 文徳源氏 清和源氏 陽成源氏 光孝源氏 宇多源氏 醍醐源氏 村上源氏 冷泉源氏 花山源氏 三条源氏 

 

後三条源氏 後白河源氏 順徳源氏 後嵯峨源氏 後深草源氏 正親町源氏

源氏

【嵯峨源氏】

●第52代・嵯峨天皇の17人の皇子が臣籍降下して源氏を称した。また、数人の皇女も臣籍降下して源姓を称した。それらの中でも源融の後裔で地方に土着して武家(軍事貴族)となった系統が著名で、渡辺氏(赤田氏・瓜生氏)などをはじめ、鎮西地方の松浦氏、蒲池氏、奈良原氏なども嵯峨源氏流と称した。

源 信流 源 弘流 源 常流 源 定流 源 明流 源 澄流 源 融流 源 勤流 源 啓流

嵯峨源氏融流

嵯峨源氏融流渡辺氏

嵯峨源氏融流渡辺氏名古屋氏

嵯峨源氏融流渡辺氏名古屋氏滝口氏

嵯峨源氏融流渡辺氏名古屋氏滝口氏松浦氏

嵯峨源氏融流渡辺氏名古屋氏滝口氏松浦氏嫡流平戸松浦氏

【嵯峨源氏融流渡辺氏名古屋氏滝口氏松浦氏嫡流平戸松浦氏】

松浦氏の数多くの傍流のうち、松浦直の五男の峯披の子孫から平戸を本拠とする平戸松浦家(平戸氏・峯氏とも)が興った。これが次第に惣領家や他の庶家をしのぐようになり、平戸氏から松浦氏に復姓した。

 

・松浦 定 2・松浦与栄 3・松浦 理 4・松浦安正 5・松浦昌栄 6・松浦正林 7・松浦是興 8・松浦豊久 

 

9代・松浦弘定 10・松浦興信 11・松浦隆信 12・松浦鎮信 13・松浦久信 14・松浦隆信 15・松浦重信

 

16・松浦 棟 17・松浦篤信 18・松浦有信 19・松浦誠信 20・松浦 清 21・松浦 熈 22・松浦 曜 23・松浦 詮 

 

24代・松浦 厚 25・松浦 陞 26・松浦 素 27・松浦 章

【仁明源氏】

​●第54代・仁明天皇の皇子

【文徳源氏】

●第55代・文徳天皇の8人の皇子が臣籍降下して源氏を称した。このうち子孫を残したのは源 能有、源 本有、源 定有、源 行有、源 載有の5人である。

源 能有 源 本有 源 定有 源 行有 源 載有

【文徳源氏嫡流能有流】

●源能有の子孫は、平安時代中期の源惟正(能有の曾孫)まで公卿に昇るなど繁栄したことから、その一族をして一般的には文徳源氏ということが多い。

●この流れから院政期には白河法皇が創設した北面武士に参加した源康季を出すが、康季が河内国坂戸牧を本領としたことから、この子孫は坂戸源氏を称した。

初代・源 能有 2代・源 当時 3代・源 相職 4代・源 惟正

【清和源氏】

●清和源氏は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。​

●嫡流は、清和天皇第6皇子・貞純親王の子・源 経基の流れとなる。​​

【清和源氏嫡流経基流】

●清和源氏の嫡流である経基流は、経基の嫡男・満仲へと継がれる。

初代・源 経基

【清和源氏嫡流経基流多田源氏】

●経基流は、経基の嫡男・満仲へと継がれ、多田源氏と称した。

●清和源氏の嫡流である多田源氏は、満仲の嫡男・頼光に継がれる。

初代・源 満仲

多田源氏

【清和源氏経基流多田源氏頼光流摂津源氏系、中川氏】

●中川氏は、清和源氏嫡流経基流頼光流摂津源氏系多田源氏と称しているが、中川重清の出自未詳のため、清和源氏嫡流経基流頼光流摂津源氏系多田源氏、中川氏と記す。

摂津源氏系、中川氏

【清和源氏経基流多田源氏頼光流摂津源氏系、中川氏豊後国岡藩中川家】

●豊後国岡藩中川家は、中川清秀の次男・中川秀成から始まるり、​歴代岡藩の藩主を務める。

 

初代・中川秀成 2代・中川久盛 3代・中川久清 4代・中川久恒 5代・中川久通 6代・中川久忠 7代・中川久慶 8代・中川久貞 

 

9代・中川久持 10代・中川久貴 11代・中川久教 12・中川久昭 13代・中川久成​​

摂津源氏系、中川氏豊後国岡藩中川家

【清和源氏経基流多田源氏頼光流摂津源氏系美濃源氏美濃土岐氏明智土岐氏】

●初代美濃守護である土岐頼貞の九男長山頼基の子明智頼重を祖とする。

●初代・定政は母方の祖父である菅沼定広を頼って三河設楽郡へ落ち延び、そこで成長したとし、当初、奥平氏に再嫁する母とは生き別れたため、母方の叔父の養嗣子として菅沼藤蔵と名乗り、家康に仕える機会を得た。

●定政は、徳川が関東に移封された際、下総守谷で1万石を与えられ、明智姓に復して定政と名乗った。その後、秀吉の勧めを受けて土岐姓に復し、土岐定政と改称し、明智土岐氏の祖となった。

初代・土岐定政 2代・土岐定義 3代・土岐頼行 4代・土岐頼殷 5代・土岐頼稔 6代・土岐頼煕 7代・土岐定経 8代・土岐頼寛 

 

9代・土岐定吉 10代・土岐定富 11代・土岐頼布 12代・土岐頼潤 13代・土岐頼功 14代・土岐頼寧 15代・土岐頼之 

 

16代・土岐頼知 17代・土岐頼敏 18代・土岐 章 19代・土岐實光​​​​​​​

明智土岐氏

【清和源氏経基流多田源氏摂津源氏系池田氏】

池田氏

【清和源氏経基流多田源氏摂津源氏系池田氏庶流片桐池田氏】

●池田恒興の四男・長政が片桐俊元の養子になったことから始まる。

初代・池田長政 2代・池田長明 3代・池田長久 4代・池田長喬 5代・池田長處 6代・池田長仍 7代・池田長玄 8代・池田長紀 

 

9代・池田長貞 10代・池田長常 11代・池田長準 12代・池田長康

片桐池田氏

【清和源氏経基流河内源氏系義国流足利氏庶流渋谷氏】

渋谷氏

【清和源氏経基流河内源氏系義国流足利氏庶流渋谷氏支流板倉氏宗家】

●板倉氏は、渋川義堯の子・板倉頼重から始まる。

初代・板倉勝重 2代・板倉重宗 3代・板倉重郷 4代・板倉重常 5代・板倉重冬 6代・板倉重治 7代・板倉勝澄 8代・板倉勝武 

 

9代・板倉勝従 10代・板倉勝政 11代・板倉勝晙 12代・板倉勝職 13代・板倉勝静 14代・板倉勝弼 15代・板倉勝貞 

 

16代・板倉勝豪 17代・板倉勝昭 18代・板倉重俊 19代・板倉重徳 20代・板倉勝慶​​​​

板倉氏宗家

【清和源氏経基流河内源氏系義国流足利氏庶流渋谷氏支流板倉氏重昌系板倉家】

●福島板倉家とも言われる。

●初代板倉宗家・板倉勝重の次男・板倉重昌から始まる。

初代・板倉重昌 2代・板倉重矩 3代・板倉重種 4代・板倉重寛 5代・板倉重泰 6代・板倉勝里 7代・板倉勝承 8代・板倉勝任

 

9代・板倉勝行 10代・板倉勝矩 11代・板倉勝長 12代・板倉勝俊 13代・板倉勝顕 14代・板倉勝己 15代・板倉勝達 

 

16代・板倉勝憲 17代・板倉勝朝

重昌系板倉家

清和源氏経基流河内源氏系義国流新田氏庶家得川家三河松平家松平宗家岩津松平家形原松平家

●形原松平家は、3代目松平宗家当主・信光の5男・与副を祖とする。

 

代・松平与副 2代・松平貞副 3代・松平親忠 4代・松平家広 5代・松平家忠 6代・松平家信 7代・松平康信 8代・松平典信

 

9代・松平信利 10代・松平信庸 11代・松平信岑 12代・松平信直 13代・松平信道 14代・松平信彰 15代・松平信志 

 

16代・松平信豪 17代・松平信義 18代・松平信正 19代・松平信興

【清和源氏経基流河内源氏系義国流新田氏庶家得川家三河松平家松平宗家岩津松平家庶家大給松平家

●大給松平家は、4代目松平宗家当主・親忠の次男・元を祖とする十八松平の一つ。

初代・松平乗元 2代・松平乗正 3代・松平乗勝 4代・松平親乗 5代・松平真乗 6代・松平家乗 7代・松平乗寿 8代・松平乗久 

9代・松平乗春 10代・松平乗邑 11代・松平乗祐 12代・松平乗完 13代・松平乗寛 14代・松平乗全 15代・松平乗秩 

 

16代・松平乗承 17代・松平乗統 18代・松平乗光 19代・松平乗忠

【清和源氏経基流河内源氏系義国流新田氏庶家得川家三河松平家松平宗家岩津松平家庶家親清流大給松平家

●親清系大給松平家は、初代大給松平家当主・乗元の次男・松平親清から始まる。

初代・松平親清 2代・松平近正 3代・松平一生 4代・松平成重 5代・松平忠昭 6代・松平近陳 7代・松平近禎 8代・松平近貞 

 

9代・松平近形 10代・松平近儔 11代・松平近義 12代・松平近訓 13代・松平近信 14代・松平近説 15代・大給近道 

 

16代・大給近孝 17代・大給近憲 18代・大給近達

【徳川家】

徳川将軍家〜徳川公爵家〜徳川宗家】

清和源氏経基流河内源氏系義国流新田氏庶家得川家松平氏徳川将軍家

初代・徳川家康 2代・徳川秀忠 3代・徳川家光 4代・徳川家綱 5代・徳川綱吉 6代・徳川家宣 7代・徳川家継 8代・徳川吉宗 

 

9代・徳川家重 10代・徳川家治 11代・徳川家斉 12代・徳川家慶 13代・徳川家定 14代・徳川家茂 15代・徳川慶喜

16代・徳川家達 17代・徳川家正 18代・徳川恒孝 19代・徳川家広

 

【清和源氏経基流河内源氏系義国流新田氏庶家得川家松平氏徳川別家】

●江戸幕府の征夷大将軍・徳川慶喜が、明治維新ののち蟄居していたのを許され、1902年(明治35年)に徳川宗家の別家として改めて公爵を授けられたことによって始まる家である。

徳川慶喜家とも呼ばれる。

初代・徳川慶喜 2代目・徳川慶久 3代目・徳川慶光 4代目・徳川慶朝 5代目・山岸美喜

【清和源氏経基流河内源氏系義国流新田氏庶家得川家松平氏徳川家庶流越前松平家庶流雲州松平分家広瀬松平家】

●広瀬松平家は、江戸時代初期、越前松平家から分家した雲州松平家からさらに分家した広瀬藩藩主の家系

初代・松平近栄 2代・松平近時 3代・松平近朝 4代・松平近明 5代・松平近輝 6代・松平近貞 7代・松平直義 8代・松平直寛

 

9代・松平直諒 10代・松平直巳

【清和源氏経基流河内源氏系義国流新田氏庶家得川家松平氏徳川家庶流越前松平家庶流雲州松平分家母里松平家】

●母里松平家は、江戸時代初期、越前松平家から分家した雲州松平家からさらに分家した母里藩藩主の家系

初代・松平隆政 2代・松平直丘 3代・松平直員 4代・松平直道 5代・松平直行 6代・松平直暠 7代・松平直方 8代・松平直興 

 

9代・松平直温 10代・松平直哉 11代・松平直敬 12代・松平直一 13代・松平龍彦

【清和源氏経基流河内源氏系義国流足利氏足利将軍家鎌倉公方家古河公方家小弓公方家支流喜連川家】

●喜連川家は、足利尊氏の次男で初代鎌倉公方の足利基氏を祖とする。その鎌倉公方から敵対独立した小弓公方系足利家が直接の前身にあたる。

初代・喜連川国朝 2代・喜連川頼氏 3代・喜連川尊信 4代・喜連川昭氏 5代・喜連川氏春 6代・喜連川茂氏 7代・喜連川氏連 

 

8代・喜連川恵氏 9代・喜連川彭氏 10代・喜連川煕氏 11代・喜連川宜氏 12代・喜連川縄氏 13代・足利聡氏 14代・足利於菟丸 

 

15代・足利惇氏 16代・足利浩平

清和源氏経基流河内源氏系義国流足利氏流斯波氏武衛家支流大野斯波氏支流奥田氏堀氏直政系直寄系支流越後村松堀家

初代・堀 直時 2代・堀 直吉 3代・堀 直利 4代・堀 直為 5代・堀 直堯 6代・堀 直教 7代・堀 直方 8代・堀 直庸 

 

9代・堀 直央 10代・ 直休 11代・堀 直賀 12代・堀 直弘

【清和源氏経基流河内源氏系義光流佐竹氏】

●佐竹氏は、清和源氏の源義光の孫昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹氏を称したのに始まる。

●平安時代末に平家に属して源頼朝に抵抗したので勢力を落としたが、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復。戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国にまで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏や伊達氏と争った。

●豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで1602年に秋田20万石に減封された。

●戊辰戦争では官軍に属して戦い、維新後には侯爵に列せられた

 

初代・佐竹昌義 2代・佐竹隆義 3代・佐竹秀義 4代・佐竹義重 5代・佐竹長義 6代・佐竹義胤 7代・佐竹行義 8代・佐竹貞義

 

9代・佐竹義篤 10代・佐竹義宣 11代・佐竹義盛 12代・佐竹義人 13代・佐竹義俊 14代・佐竹義治 15代・佐竹義舜

 

16代・佐竹義篤 17代・佐竹義昭 18代・佐竹義重 19代・佐竹義宣 20代・佐竹義隆 21代・佐竹義処 22代・佐竹義格 

 

23代・佐竹義峯 24代・佐竹義真 25代・佐竹義明 26代・佐竹義敦 27代・佐竹義和 28代・佐竹義厚 29代・佐竹義睦 

 

30代・佐竹義堯 31代・佐竹義脩 32代・佐竹義堯(再襲) 33代・佐竹義生 34代・佐竹義春 35代・佐竹義栄 36代・佐竹 孝

【清和源氏経基流河内源氏系義光流佐竹氏佐竹東家】

初代・佐竹政義 2代・佐竹義堅 3代・佐竹義喬 4代・佐竹義久 5代・佐竹義賢 6代・佐竹義直 7代・佐竹義長 8代・佐竹義寛 

 

9代・佐竹義秀 10代・佐竹義本 11代・佐竹義智 12代・佐竹義路 13代・佐竹義府 14代・佐竹義冨 15代・佐竹義徳 

 

16代・佐竹義珍 17代・佐竹義致 18代・佐竹義典 19代・佐竹義祚 20代・佐竹義寿 21代・佐竹克子 22代・佐竹銀子 

 

23代・佐竹義準 24代・佐竹義利

 

【清和源氏経基流河内源氏系義光流佐竹氏佐竹南家】

●佐竹南家は15代目佐竹氏当主・佐竹義舜の四男・義里から始まる。

●11代目以降は同族の早川氏が当主を務める。

初代・佐竹義里 2代・佐竹義尚 3代・佐竹義種 4代・佐竹義章 5代・佐竹義著 6代・佐竹義敞 7代・佐竹義安 8代・佐竹義伯

 

9代・佐竹義持 10代・佐竹義舒 11代・佐竹義以 12代・佐竹義良 13代・佐竹義珍 14代・佐竹義孟 15代・佐竹義誠 

16代・佐竹義隣 17代・佐竹義雄 18代・佐竹義質 19代・佐竹義輔 20代・佐竹義惇 21代・佐竹義宏

 

 

 

 

【清和源氏経基流河内源氏系義光流佐竹氏庶流宇留野氏】

●佐竹義人・孫の義公の代に常陸国那珂郡宇留野邑(宇留野村)を拠点として、宇留野氏と称した。

初代・宇留野四郎 2代・宇留野義元

 

 

 

【清和源氏経基流河内源氏系義光流甲斐源氏逸見氏大森氏溝口氏宗家】

【清和源氏経基流河内源氏系義光流甲斐源氏逸見氏大森氏溝口氏宗家沢海溝口家】

●6代目溝口氏宗家で初代新発田藩主家・溝口秀勝の次男・溝口善勝が、兄から1万2000石を分与され、それまで領していた2000石と合わせて1万4000石の大名・越後沢海藩主となった。

初代・溝口善勝 2代・溝口政勝 3代・溝口政良 4代・溝口政親

 

【清和源氏経基流河内源氏義光流甲斐源氏加賀美氏小笠原氏秀政系府中小笠原氏真方系豊前国千束藩藩主】

初代・小笠原真方 2代・小笠原貞通 3代・小笠原貞顕 4代・小笠原貞温 5代・小笠原貞哲 6代・小笠原貞謙 7代・小笠原忠嘉 

 

8代・小笠原貞寧 9代・小笠原貞正 10代・小笠原貞規

【清和源氏経基流河内源氏義光流甲斐源氏加賀美氏南部氏分家八戸南部家】

●八戸南部家は、江戸時代初期27代目南部氏当主・南部利直の七男・直房を初代とし、陸奥国八戸藩の藩主を代々務める。

●1871年(明治4年)9代目・信順の時代に廃藩置県。

初代・南部直房 2代・南部直政 3代・南部通信 4代・南部広信 5代・南部信興 6代・南部信依 7代・南部信房 8代・南部信真  

 

9代・南部信順 10代・南部栄信 11代・南部麻子 12代・南部利克 13代・南部信克 14代・南部直敬 15代・南部匡慶

 

16代・南部光隆

【清和源氏経基流河内源氏系義国流新田氏本宗家】

初代・新田義重 2代・新田義兼 3代・新田義房 4代・新田政義 5代・新田政氏 6代・新田基氏 7代・新田朝氏 8代・新田義貞

9代・新田義宗

【宇多源氏】

​●第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族。

​●清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて繁栄した名族である。

嫡流敦実親王流雅信流 重信流 

宇多源氏

【宇多源氏嫡流敦実親王流雅信流】

初代・源 雅信 2代・源 時中 3代・源 済政 4代・源 資通 5代・源 政長 6代・源 有賢 7代・源 資賢 8代・源 時賢 

 

9代・源 有資 10代・源 経資

宇多源氏嫡流雅信流

【宇多源氏敦実親王流雅信流扶義流近江源氏佐々木氏支流出雲佐々木氏嫡流塩冶氏】

●塩冶氏は、近江源氏佐々木氏支流出雲佐々木氏の嫡流。

●佐々木泰清の三男・頼泰が、出雲国神門郡塩冶郷(現・島根県出雲市塩冶町)を本貫として、塩冶氏を称したことに始まる。

●居城は大廻(おおさこ)城であったという。以後鎌倉時代を通じて出雲守護職を務めた。

初代・塩冶頼泰 2代・塩冶貞清 3代・塩冶高貞 4代・塩冶冬貞 

塩冶氏

【宇多源氏敦実親王流雅信流扶義流近江源氏佐々木氏支流出雲佐々木氏嫡流塩冶氏後塩冶氏】

●4代目塩冶氏当主・冬貞の時、叔父(父・高貞の弟)・時綱と家督をめぐり抗争し、後には時綱およびその子孫が新たな惣領となったこに始まる。この家は“後塩冶氏”と呼ばれる。

●時綱の子孫は足利将軍家の近習として存続した。

●塩冶貞慶の時、一族の内訌が生じて尼子経久の介入を受け、経久の三男尼子興久を養子として押し付けられる形で尼子氏に乗っ取られている。興久は後謀反を起こして敗死し、息子清久の代には尼子姓に戻し、興久の孫にあたる政貞は加藤姓を名乗ることとなり、塩冶氏は傍系のみが存続を許され所領の大半は経久次男の国久が継承した。

初代・塩冶時綱 塩冶貞慶 塩冶興久

後塩冶氏

【宇多源氏敦実親王流雅信流扶義流近江源氏佐々木氏支流出雲佐々木氏嫡流塩冶氏支流但馬塩冶氏】

​●塩冶氏の一族で、のち但馬に移った但馬塩冶氏。

​●本家2代目・貞清の子・時綱の曾孫・成清から始まる。

​●高清の子は吉川氏の家臣となり防州岩国の地に移った。

 

初代・塩冶成清 2代・塩冶政清 3代・塩冶周防守 4代・塩冶綱吉 5代・塩冶綱高 6代・塩冶高清

但馬塩冶氏
宇多源氏重信流

【宇多源氏重信流】

初代・源 重信 2代・源 道方 3代・源 経信

醍醐源氏

【醍醐源氏】

【醍醐源氏嫡流高明流西宮家】

●醍醐源氏嫡流。情報は6代目まででそれ以降は未詳

●一世賜姓では源高明源兼明左大臣に昇るが、それぞれ政争によってその地位を追われた。しかし高明の子孫は院政期まで栄え、一条朝の四納言の一人である源俊賢をはじめとして、源経房源隆国源俊明などの多くの公卿を輩出した。

初代・源 高明 2代・源 俊賢 3代・源 顕基 4代・源 資綱 5代・源 家賢 6代・源 家俊

醍醐源氏嫡流高明流西宮家

【醍醐源氏嫡流高明流西宮家庶流宇治家】

初代・源 隆国 2代・源 隆俊 3代・源 俊実 4代・源 忠高

宇治家

【村上源氏】

●​第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、致平親王為平親王具平親王の各皇子を祖とする3つの流派がある。

後の世になって具平親王の子孫の中院流が時流に乗って最も栄えることになり、久我家嫡流)や中院家を始めとして10家の堂上家を輩出し、源氏系の公卿では筆頭を占めた。

村上源氏具平親王流師房中院流久我流

村上源氏具平親王流師房中院流久我流岩倉家

村上源氏具平親王流師房中院流久我流岩倉家岩倉具経家

村上源氏

【村上源氏具平親王流師房中院流久我流岩倉家岩倉具経家】

●岩倉家の分家。

初代・岩倉具経 2代目・岩倉具明 3代目・岩倉具正

岩倉具経家

【村上源氏、稲田氏淡路洲本城代稲田家】

●稲田氏は、村上源氏の後裔であるが、初代・稲田植元の父・稲田貞祐の出自未詳のため、詳細がわからず、このサイトでは村上源氏稲田氏と記す。

江戸時代には阿波国徳島藩主蜂須賀家の家中で家老と淡路洲本城城代を世襲した家であり、維新後には士族を経て華族の男爵家に列せられた。

初代・稲田植元 2代・稲田示植 3代・稲田植次 4代・稲田植栄 5代・稲田植幹 6代・稲田植治 7代・稲田植政 8代・稲田植久

 

9代・稲田植晟 10代・稲田植樹 11代・稲田敏植 12代・稲田植封 13代・稲田芸植 14代・稲田植乗 15代・稲田植誠 

 

16代・稲田邦植 17代・稲田昌植

淡路洲本城代稲田家

【大臣】

●古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つ。王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として執政を行った。

●正史で最初の大臣と見なされているのは成務天皇の時代の武内宿禰である。その後は、武内宿禰の後裔(葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏など)が大臣の地位を継いだ。

●乙巳の変直後に即位した孝徳天皇は、大臣に代って左大臣と右大臣を置き、権力集中の防止を図った。

初代・武内宿禰 2代目・和珥日触 3代目・葛城 円 4代目・物部小前 5代目・平群真鳥 6代目・巨勢男人 7代目・蘇我稲目 

 

8代目・蘇我馬子 9代目・蘇我蝦夷 10代目・蘇我入鹿​

【左大臣】

●左大臣は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。定員1名。太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。

●乙巳の変直後に即位した孝徳天皇は、大臣に代って左大臣と右大臣を置き、権力集中の防止を図った。

●1885年(明治18年)12月内閣制度の発足に伴い廃止。

 

初代・阿部内麻呂 2代・巨勢徳多 3代目・蘇我赤兄 4代・多治比 嶋 5代・石上麻呂 6代・長屋王 7代・藤原武智麻呂 

 

8代・橘 諸兄 9代・藤原永手 10代・藤原魚名 11代・藤原田麻呂 12代・藤原緒嗣 13代・源 常 14代・源 信 15代・源 融 

 

16代・藤原良世 17代・藤原時平 18代・藤原忠平 19代・藤原仲平 20代・藤原実頼

 

 

【右大臣】

右大臣は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。定員1名。

●左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。

●乙巳の変直後に即位した孝徳天皇は、大臣に代って左大臣と右大臣を置き、権力集中の防止を図った。

●1885年(明治18年)12月内閣制度の発足に伴い廃止。

初代・蘇我倉山田石川麻呂 2代・大伴長徳 3代・蘇我連子 4代・中臣 金 5代・多治比 嶋 6代・阿倍御主人 7代・石上麻呂 

 

8代・藤原不比等 9代・長屋王 10代・藤原武智麻呂 11代・橘 諸兄 12代・藤原豊成 13代・藤原恵美押勝 14代・藤原豊成 

 

15代・藤原永手 16代・吉備真備 17代・大中臣清麻呂 18代・藤原田麻呂 19代・藤原是公 20代・藤原継縄 21代・神王 

 

22代・藤原内麻呂 23代・藤原園人 24代・藤原冬嗣 25代・藤原緒嗣 26代・清原夏野 27代・藤原三守 28代・源 常 

 

29代・橘 氏公 30代・藤原良房 31代・藤原良相 32代・藤原氏宗 33代・藤原基経 34代・源 多 35代・藤原良世 

 

36代・源 能有 37代・菅原道真 38代・源 光 39代・藤原忠平 40代・藤原定方 41代・藤原仲平 42代・藤原恒佐 

 

43代・藤原実頼 44代・藤原師輔 45代・藤原顕忠 46代・源 高明 47代・藤原師尹 48代・藤原在衡 49代・藤原伊尹 

 

50代・藤原頼忠 51代・源 雅信 52代・藤原兼家 53代・藤原為光 54代・源 重信 55代・藤原道兼 56代・藤原道長

 

57代・藤原顕光 58代・藤原公季 59代・藤原実資 60代・藤原教通 61代・藤原頼宗 62代・藤原師実 63代・源 師房 

 

64代・藤原俊家 65代・源 俊房 66代・源 顕房 67代目・藤原忠実 68代目・源 雅実 69代目・藤原家忠 70代目・源 有仁

71代・藤原宗忠 72代・三条実行 73代・源 雅定 74代・藤原宗輔 75代・近衛基実 76代・徳大寺公能 77代・松殿基房 

 

78代・藤原経宗 79代・九条兼実 80代・徳大寺実定 81代・三条実房 82代・藤原兼雅 83代・藤原頼実 84代・近衛家実 

 

85代・藤原隆忠 86代・花山院忠経 87代・近衛道経 88代・九条良輔 89代・徳大寺公継 90代・九条道家 91代・源 実朝

太政大臣】

●太政大臣は太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。

●現在の内閣総理大臣に相当し、飛鳥時代から明治時代の内閣制度発足まで続く。

●1885年明治18年)12月内閣制度の発足に伴い廃止。

◉皇親太政大臣◉

初代・弘文天皇 2代・高市皇子 3代・忍壁皇子 4代・穂積親王 5代・舎人親王 6代・鈴鹿王 

◉人臣太政大臣◉

初代・藤原仲麻呂 2代・弓削道鏡 3代・藤原良房 4代・藤原基経 5代・藤原忠平 6代・藤原実頼 7代・藤原伊尹 8代・藤原兼通

 

9代・藤原頼忠 10代・藤原兼家 11代・藤原為光 12代・藤原道長 13代・藤原公季 14代・藤原頼通 15代・藤原教通

16代・藤原信長 17代・藤原師実 18代・藤原忠実 19代・源 雅実 20代・藤原忠通 21代・藤原忠通 22代・三条実行 

 

23代・藤原宗輔 24代・藤原伊通 25代・平 清盛 26代・藤原忠雅 27代・松殿基房 28代・29代・30代・31代・32代・33代・34代・35代・36代・37代・38代・39代・40代

【紀伊国造】

●紀伊国造は、紀伊国(現在の和歌山県)を支配した国造。

●天道根を祖とし神別の紀氏の長の流れをくむ一族で、古代には代々紀伊国の国造職とともに日前神宮・國懸神宮の祭祀を受け継ぎ、律令制施行により国造制が廃された後も同神宮の宮司として「国造」を称した。
木国造、紀国造とも表した。

先代旧事本紀』「国造本紀」では、神武朝神皇産霊の五世孫の天道根を国造に定めたとされる。『紀伊続風土記』においても神武天皇の畿内平定ののちに紀伊の国造に封じられた天道根の嫡流であるとされる。

●実際に任命された最初の紀伊国造は、6世紀の第30代・敏達天皇の御代、紀忍勝(日本書紀敏達12年7月丁酉条、10月条)であると考えられているが、このサイトでは天道根を初代と考える。

初代・天道根 2代・比古麻 3代鬼刀禰 4代久志多麻 5代大名草比古 6代莵道彦 7代菟名手 8代夜都賀志比

【葛城国造】

●高皇産霊尊の5世孫または天押立命の4世孫(実際は3世孫)の剣根が神武天皇朝に国造に任命されたと伝わる。初代倭国造とされる椎根津彦、紀国造の天道根、伊勢国造の天日別、素賀国造の美志印らとともに国造の最も古い例とされる。

●葛城国造は、葛城国(大和南西部、現・奈良県御所市、大和高田市)を支配した。

初代・剣根 → 荒田彥

【毛野国造】 

●第10代・崇神天皇皇子、豊城入彦が東国を治定したことから始まる。

●第16代・仁徳天皇の御代、上毛野国造(現・群馬県)と下毛野国造(現・栃木県)に分かれる。

 

初代・彦狭島王 2代・御諸別王 3代・荒田別

【上毛野国造】

初代・竹葉瀬

【下毛野国造】

初代・奈良別

【中臣氏】

●中臣氏は、天児屋命を祖とする氏族。中臣常盤が欽明天皇から中臣姓を賜り初代とされ、常盤以前の中臣は後世つけられたと考えられる。中ツ臣が訛って中臣となった。

●古代の日本において、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。
●系譜には、武内宿禰の妹がいて、紀氏からの派生だということがわかる。また、中臣から大中臣や藤原氏が派生し、現在でも大きな影響力を持っている。

●推古天皇元年より明治4年に明治政府より罷免されるまで、中臣氏二門が歴代伊勢神宮の祭主を行ってきた歴史がある。

中臣常盤(初代中臣氏) 中臣御食子(中臣氏一門の祖) 中臣国子(中臣氏二門の祖) 中臣糠手子(中臣氏三門の祖)

【藤原氏】

​●中臣鎌足が天智天皇から大識冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜ったことから始まる。

​●鎌足の子・不比等が藤原姓を継承する。

​初代・藤原鎌足 2代・藤原不比等

藤氏長者 藤原南家 藤原北家 藤原式家 藤原京家

【藤氏長者】

●藤原氏全体の当主、長者を指す。

 

初代・藤原鎌足 2代・中臣意美麻呂 3代・藤原不比等 4代・藤原房前 5代・藤原武智麻呂 6代・藤原豊成 7代・藤原仲麻呂 

 

8代・藤原豊成 9代・藤原永手 10代・藤原良継 11代・藤原魚名 12代・藤原田麻呂 13代・藤原是公 14代・藤原継縄

 

15代・藤原内麻呂 16代・藤原園人 17代・藤原冬嗣 18代・藤原緒嗣 19代・藤原良房 20代・藤原基経 21代・藤原良世

22代・藤原時平 23代・藤原忠平 24代・藤原実頼 25代・藤原伊尹 26代・藤原頼忠 27代・藤原兼通 28代・藤原頼忠

 

29代・藤原兼家 30代・藤原道隆 31代・藤原道兼 32代・藤原道長 33代・藤原頼通 34代・藤原教通 35代・藤原師実

 

36代・藤原師通 37代・藤原忠実 38代・藤原忠通 39代・藤原頼長 40代・藤原忠通 41代・近衛基実 42代・松殿基房

43代・近衛基通 44代・松殿師家 45代・近衛基通 46代・九条兼実 47代・近衛基通 48代・九条良経 49代・近衛家実

50代・九条道家 51代・近衛家実 52代・九条道家 53代・九条教実 54代・九条道家 55代・近衛兼経 56代・二条良実

57代・一条実経 58代・近衛兼経 59代・鷹司兼平 60代・二条良実 61代・一条実経 62代・近衛基平 63代・鷹司基忠

 

64代・九条忠家 65代・一条家経 66代・鷹司兼平 67代・二条師忠 68代・近衛家基 69代・九条忠教 70代・近衛家基 

 

71代・鷹司兼忠 72代・二条兼基 73代・九条師教 74代・鷹司冬平 75代・近衛家平 76代・鷹司冬平 77代・二条道平

 

78代・一条内経 79代・九条房実 80代・鷹司冬平 81代・二条道平 82代・近衛経忠 83代・鷹司冬教 84代・二条道平

 

85代・近衛経忠 86代・近衛基嗣 87代・一条経通 88代・九条道教 89代・鷹司師平 90代・二条良基 91代・九条経教

92代・近衛道嗣 93代・二条良基 94代・鷹司冬通 95代・二条師良 96代・九条忠基 97代・二条師嗣 98代・二条良基

99代・近衛兼嗣 100代・二条良基 101代・二条師嗣 102代・一条経嗣 103代・二条師嗣 104代・一条経嗣 105代・近衛忠嗣

106代・二条満基 107代・一条経嗣 108代・九条満家 109代・二条持基 110代・一条兼良 111代・二条持基 112代・近衛房嗣

113代・一条兼良 114代・鷹司房平 115代・二条持通 116代・一条教房 117代・二条持通 118代・一条兼良 119代・二条政嗣

120代・九条政基 121代・近衛政家 122代・鷹司政平 123代・九条政忠 124代・一条冬良 125代・近衛尚通 126代・二条尚基

127代・一条冬良 128代・九条尚経 129代・近衛尚通 130代・鷹司兼輔 131代・二条尹房 132代・近衛稙家 133代・九条稙通

134代・二条尹房 135代・近衛稙家 136代・鷹司忠冬 137代・一条房通 138代・二条晴良 139代・一条兼冬 140代・近衛前久

141代・二条晴良 142代・九条兼孝 143代・一条内基 144代・二条昭実 145代・九条兼孝 146代・近衛信尹 147代・鷹司信房

148代・九条忠栄 149代・鷹司信尚 150代・二条昭実 151代・九条忠栄 152代・近衛信尋 153代・一条兼遐 154代・二条康道

155代・九条道房 156代・一条昭良 157代・近衛尚嗣 158代・二条光平 159代・鷹司房輔 160代・一条冬経 161代・近衛基熙

162代・鷹司兼熙 163代・近衛家熙 164代・九条輔実 165代・二条綱平 166代・近衛家久 167代・二条吉忠 168代・一条兼香

169代・一条道香 170代・近衛内前 171代・九条尚実 172代・鷹司輔平 173代・一条輝良 174代・鷹司政煕 175代・一条忠良

176代・鷹司政通 177代・九条尚忠​ 178代・近衛忠煕 179代・鷹司輔煕 180代・二条斉敬 181代・九条道孝

【藤原南家】

​●藤原不比人の長男・武智麻呂から始まる藤原氏の一流。

​●「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。

初代・藤原武智麻呂

藤原南家豊成流

藤原南家仲麻呂流

藤原南家乙麻呂流

藤原南家巨勢麻呂流

【藤原南家豊成流】

​●武智麻呂の長男・豊成​​から始まる流れ。

 

初代・藤原豊成 2代・藤原縄麻呂

【藤原南家仲麻呂流】

​●武智麻呂の次男・仲麻呂​​から始まる流れ。

●天平宝字8年9月に仲麻呂が起こした仲麻呂の乱が失敗に終わり、一族のほとんどが、処刑、流罪になった。

初代・藤原仲麻呂

【藤原南家乙麻呂流】

​●武智麻呂の三男・乙麻呂​​から始まる流れ。

 

初代・藤原乙麻呂​​

【藤原南家乙麻呂流為憲流工藤氏】

【藤原南家乙麻呂流為憲流工藤氏流入江氏】

【藤原南家乙麻呂流為憲流工藤氏流入江氏吉川氏】

●吉川氏は、平安時代末期の寿永2年(1183年)に源頼朝から駿河国吉河荘(現在の静岡市清水区)を得た際に吉川氏(吉河・吉香)を名乗るようになる。この地に館を築き、吉川氏の本拠とした。

●5代・経高の時、吉川氏を安芸国に移住させて以降、安芸吉川氏と名乗った。

初代・吉川経義 2代・吉川友兼 3代・吉川朝経 4代・吉川経光 5代・吉川経高 6代・吉川経盛 7代・吉川経秋 8代・吉川経見 

9代・吉川経信 10代・吉川之経 11代・吉川経基 12代・吉川国経 13代・吉川元経 14代・吉川興経 15代・吉川元春 

 

16代・吉川元長 17代・吉川広家 18代・吉川広正 19代・吉川広嘉 20代・吉川広紀 21代・吉川広逵 22代・吉川経永 

 

23代・吉川経倫 24代・吉川経忠 25代・吉川経賢 26代・吉川経礼 27代・吉川経章 28代・吉川経幹 29代・吉川経健 

 

30代・吉川元光 31代・吉川重喜 32代・吉川重幹​​​

【藤原南家乙麻呂流為憲流工藤氏流入江氏吉川氏安芸吉川氏】

●安芸吉川氏は、本家5代目・吉川経高が吉川氏を安芸国に移住させることによって始まり、のちに吉川氏が発展した。

●本家5代目・吉川経高を初代とし、以降は本家と同じ当主である。

 

初代・吉川経高 2代・吉川経盛 3代・吉川経秋 4代・吉川経見 5代・吉川経信 6代・吉川之経 7代・吉川経基 8代・吉川国経 

 

9代・吉川元経 10代・吉川興経 11代・吉川元春 12代・吉川元長 13代・吉川広家 14代・吉川広正 15代・吉川広嘉 

 

16代・吉川広紀 17代・吉川広逵 18代・吉川経永 19代・吉川経倫 20代・吉川経忠 21代・吉川経賢 22代・吉川経礼 

 

23代・吉川経章 24代・吉川経幹 25代・吉川経健 26代・吉川元光 27代・吉川重喜 28代・吉川重幹​​​​

【藤原南家巨勢麻呂流】

●武智麻呂の四男から始まる流れ。

 

初代・藤原巨勢麻呂 2代・藤原黒麻呂 3代・藤原春継 4代・藤原良尚 5代・藤原菅根 6代・藤原元方 7代・藤原懐忠 

 

8代・藤原令尹 9代・藤原成尹 10代・藤原忠輿 11代・藤原懐遠 12代・藤原懐経 13代・藤原経尹 14代・藤原懐広

【藤原北家】

●藤原四家の一つ。

●藤原北家とは、右大臣藤原不比等の次男・藤原房前を祖とする家系。

●藤原房前の邸宅が、藤原南家の祖である兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。

​藤原北家嫡流 藤原北家御堂流 藤原北家閑院流 藤原北家魚名流

【藤原北家嫡流長良流冬嗣流小野宮流】

●小野宮流は藤原北家嫡流でありながら、分派であるはずの九条流に摂関家の主導権を奪われたが、九条流に対して記録資料の面で優れ、故実に通じる家として著名であり、実資は膨大な記録資料を実頼より継承したといわれる。

●結果的には、道長ら九条流の最大の競争相手であった小野宮流の財産の殆どが九条流(正確には道長の御堂流)に入ることとなり、経済的基盤を失った小野宮流は院政期には没落して事実上消滅することになった。

初代・藤原実頼 2代・藤原実資 3代・藤原千古 4代・小野宮尼公 5代・未詳 - 藤原能実室

【藤原北家嫡流長良流冬嗣流九条流】

​●藤原師輔は関白藤原忠平の次男に生まれ、右大臣にまで昇進したものの兄・実頼(小野宮流)の存在のために摂政関白になることなく終わった。

●師輔の子孫は女子に恵まれて冷泉天皇から後冷泉天皇までの実に8代にわたる天皇の外戚となって摂政関白の地位を独占した。

●特に藤原道長・頼通父子は前後70年にわたって宮廷政治を支配して摂関政治の全盛期を築き、その子孫は御堂流と呼ばれて代々摂政関白と藤氏長者の地位を継承した。その際に『九条年中行事』に基づいて宮廷儀式を遂行して、しきたりを重視する宮廷社会において他家に対して優位な立場に立つ事を図ったと言う。

初代・藤原師輔 2代・藤原兼家

【藤原北家嫡流長良流冬嗣流九条流御堂流】

​●兼家の五男・藤原道長から始まる流れ。

●道長の子孫の一門および彼を祖とする有職故実及び作法の流派の呼称。

●「御堂」とは、道長が法成寺を創建して「御堂関白」の異名を得ていたことに由来する。ただし、実際に関白には就任していない。

初代・藤原道長 2代・藤原頼通 3代・藤原師実 4代・藤原師通 5代・藤原忠実 6代・藤原忠通 

【藤原北家嫡流冬嗣流長良流九条系御堂流近衛家】

●公家の五摂家筆頭で、華族の公爵家のひとつ。人臣で最も天皇に近い地位にある家とされる。

●御堂流6代目・藤原忠通の四男(実質的な長男)の近衛基実を家祖とする。その子の基通が京都近衛の北、室町の東、近衛大路に面した邸宅を「近衛殿」と称したことが家名の由来である。

初代・近衛基実 2代・近衛基通 3代・近衛家実 4代・近衛兼経 5代・近衛基平 6代・近衛家基 7代・近衛家平

8代・近衛経忠 9代・近衛経平 10代・近衛道嗣 11代・近衛兼嗣 12代・近衛忠嗣 13代・近衛房嗣 14代・近衛政家

15代・近衛尚通 16代・近衛稙家 17代・近衛前久 18代・近衛信尹 19代・近衛信尋 20代・近衛尚嗣 21代・近衛基熙

22代・近衛家熙 23代・近衛家久 24代・近衛内前 25代・近衛経熙 26代・近衛基前 27代・近衛忠煕 28代・近衛忠房 

29代・近衛篤麿 30代・近衛文麿 31代・近衛文隆 32代・近衞忠煇

【藤原北家嫡流冬嗣流長良流九条系御堂流近衛家庶家鷹司家】

●五摂家の一つ。

●3代目近衛家当主・近衛家実の四男・兼平が鎌倉時代中期の1252年(建長4年)に摂政・藤氏長者宣下を賜り、近衛家領荘園を分割で継承し、後に姉の長子(鷹司院、後堀河天皇中宮)の所領も相続し、新しく鷹司家を創設することとなった。

初代・鷹司兼平 2代・鷹司基忠 3代・鷹司兼忠 4代・鷹司冬平 5代・鷹司冬教 6代・鷹司師平 7代・鷹司冬通 8代・鷹司冬家

9代・鷹司房平 10代・鷹司政平 11代・鷹司兼輔 12代・鷹司忠冬 13代・鷹司信房 14代・鷹司信尚 15代・鷹司教平

16代・鷹司房輔 17代・鷹司兼熙 18代・鷹司房熙 19代・鷹司尚輔 20代・鷹司基輝 21代・鷹司輔平 22代・鷹司政煕

23代・鷹司政通 24代・鷹司輔煕 25代・鷹司煕通 26代・鷹司信輔 27代・鷹司平通 28代・鷹司尚武

【藤原北家嫡流冬嗣流長良流九条系御堂流九条家】

​●五摂家の一つ。

​●五摂家筆頭で公爵家だった近衛家と双璧する高い家格を持つ。

​●御堂流・藤原忠通の六男である九条兼実を祖とする。

●九条の家号は始祖である兼実の殿第に由来するが、九条の坊名にちなんで「陶化」とも呼ばれた

 

初代・九条兼実 2代・九条良経 3代・九条道家 4代・九条教実 5代・九条忠家 6代・九条忠教 7代・九条師教 8代・九条房実 

 

9代・九条道教 10代・九条経教 11代・九条忠基 12代・九条満家 13代・九条政忠 14代・九条政基 15代・九条尚経 

 

16代・九条稙通 17代・九条兼孝 18代・九条幸家 19代・九条道房 20代・九条兼晴 21代・九条輔実 22代・九条師孝 

 

23代・九条幸教 24代・九条稙基 25代・九条尚実 26代・九条道前 27代・九条輔家 28代・九条輔嗣 29代・九条尚忠 

 

30代・九条幸経 31代・九条道孝 32代・九条道実 33代・九条道秀 34代・九条道弘 35代・九条道成 

【藤原北家嫡流冬嗣流長良流九条系御堂流九条家支流二条家】

​●五摂家の一つ。

​●3代目九条家当主・九条道家の次男・​二条良実が興した。

​●居所を二条京極第に置いたことから、良実を祖とする五摂家の系統は二条家と号した。

​初代・二条良実 2代・二条師忠 3代・二条兼基 4代・二条道平 5代・二条良基 6代・二条師良 7代・二条師嗣 8代・二条満基 

 

9代・二条持基 10代・二条持通 11代・二条政嗣 12代・二条尚基 13代・二条尹房 14代・二条晴良 15代・二条昭実 

 

16代・二条康道 17代・二条光平 18代・二条綱平 19代・二条吉忠 20代・二条宗熙 21代・二条宗基 22代・二条重良 

 

23代・二条治孝 24代・二条斉通 25代・二条斉信 26代・二条斉敬 27代・二条基弘 28代・二条厚基 29代・二条弼基 

 

30代・二条基敬

【藤原北家嫡流冬嗣流長良流九条系御堂流九条家支流一条家】

​●五摂家の一つ。

●3代目九条家当主・九条道家の四男実経が父から所領と邸宅を譲られたのに始まる。

​●その邸宅が一条室町にあったことから一条を家名とするようになった

初代・一条実経 2代・一条家経 3代・一条内実 4代・一条内経 5代・一条経通 6代・一条房経 7代・一条経嗣 8代・一条兼良 

 

9代・一条教房 10代・一条冬良 11代・一条房通 12代・一条兼冬 13代・一条内基 14代・一条昭良 15代・一条教輔 

 

16代・一条冬経 17代・一条兼香 18代・一条道香 19代・一条輝良 20代・一条忠良 21代・一条実通 22代・一条忠香 

 

23代・一条実良 24代・一条忠貞 25代・一条実輝 26代・一条実孝 27代・一条実文 28代・一條實昭 

【藤原北家冬嗣流九条系御堂流近衛家庶流近衛秀麿家】

 

●29代目近衛家当主・近衛篤麿の次男・近衛秀麿が創設した。

初代・近衛秀麿 2代・近衛秀健 3代・近衛 一

【藤原北家嫡流冬嗣流長良流九条系御堂流九条家支流二条家分家】

​●26代目・二条斉敬の四男・二条正麿が1902年(明治35年)12月5日、分家して男爵を叙爵した。

初代・二条正麿 2代・二条豊基 3代・二条正基 4代・二条治基 

【藤原北家嫡流冬嗣流長良流九条系御堂流九条家支流一条家支流土佐一条家】

●8代目一条家当主・一条兼良の長男・教房が、応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発すると、同年8月に弟の興福寺大乗院門主・尋尊を頼って、奈良に避難する。次いで、父の兼良も奈良に避難してきたため、応仁2年(1468年)9月に父に奈良の避難所を譲って教房は一条家領のあった土佐国幡多荘に下向したことに始まる。

初代・一条教房 2代・一条房家 3代・一条房冬 4代・一条房基 5代・一条兼定 6代・一条内政 7代・一条政親 8代・一条実基 

【藤原北家冬嗣流長良流九条系御堂流中御門流松木家】

●中御門流は、藤原道長の次男・藤原頼宗の嫡子・宗俊が家を興し“中御門”と号したことに始まる。

●松木家は、中御門流の嫡流にあたる。

初代・藤原宗俊 2代・藤原宗忠 3代・藤原宗能 4代・藤原宗家 5代・藤原宗経 6代・藤原宗平 7代・中御門宗雅 

 

8代・中御門宗冬 9代・中御門冬定 10代・中御門宗重 11代・中御門宗泰 12代・松木宗宣 13代・松木宗継 14代・松木宗綱 

 

15代・松木宗藤 16代・松木宗房 17代・松木宗通 18代・松木宗則 19代・松木宗信 20代・松木宗敦 21代・松木宗保 

 

22代・松木宗条 23代・松木宗顕 24代・松木宗彌 25代・松木宗長 26代・松木宗美 27代・松木宗章 28代・松木宗徳    

 

29代・松木宗行 30代・松木宗有 31代・松木宗隆 32代・松木宗弘

【藤原北家冬嗣流長良流九条系御堂流御子左家】

●御子左家は、藤原北家嫡流藤原道長の六男・権大納言 藤原長家を祖とする藤原氏の系流。御子左流ともいう。ただし「御子左」を家名として名乗った者はない。

●「御子左」は、醍醐天皇の第十六皇子で左大臣に上った兼明親王の通称「御子左大臣」(御子=皇子)に由来する。

●親王の邸宅・御子左第を伝領した長家が「御子左民部卿」と呼ばれたことから、彼以後その流れをこう呼ぶようになった。

初代・藤原長家 2代・藤原忠家 3代・藤原俊忠 4代・藤原俊成 5代・藤原定家 6代・藤原為家 7代・二条為氏 8代・二条為世 

 

9代・二条為定 10代・二条為遠 11代・二条為衡

【藤原北家冬嗣流長良流九条系御堂流御子左家冷泉家】

【藤原北家冬嗣流長良流九条系御堂流御子左家冷泉家上冷泉家】

【藤原北家冬嗣流長良流九条系御堂流御子左家冷泉家下冷泉家】

●下冷泉家は、3代目冷泉家当主・冷泉為尹の三男・持為が祖。為尹の死後、細川庄の荘園は持為に譲られ、長男である為之には細川庄の得分30石のみが譲られた。これが原因で冷泉家は為之の家系(上冷泉)と持為の家系(下冷泉)に分立した。

初代・冷泉持為 2代・冷泉政為 3代・冷泉為孝 4代・冷泉為豊 5代・冷泉為純 6代・冷泉為勝 7代・冷泉為将 8代・冷泉為景

 

9代・冷泉為元 10代・冷泉為経 11代・冷泉為俊 12代・冷泉宗家 13代・冷泉為栄 14代・冷泉為訓 15代・冷泉為起 

 

16代・冷泉為行 17代・冷泉為柔 18代・冷泉為勇 19代・冷泉為安 20代・冷泉為弘

【藤原北家冬嗣流長良流九条流世尊寺家】

●九条流の嫡流であった摂政藤原伊尹の孫・行成を祖とする和様書道の流派。

●藤原行成が晩年母の里方の代明親王の邸宅だった桃園第に隠棲し、邸宅内に世尊寺を建立、その子孫が代々そこを住居としたため「世尊寺」の家名が成立した。

●世尊寺の家名で知られるのは、初代藤原行成から8代​目世尊寺行能以後とされる。

●世尊寺家は行季の17代で断絶した。このため、朝廷の書役は世尊寺流の筆頭門人格であった持明院基春の持明院流に受け継がれた。

 

初代・藤原行成 2代・藤原行経 3代・藤原伊房 4代・藤原定実 5代・藤原定信 6代・藤原伊行 7代・藤原伊経 8代・世尊寺行能

 

9代・世尊寺経朝 10代・世尊寺経尹 11代・世尊寺行房 12代・世尊寺行尹 13代・世尊寺行忠 14代・世尊寺行俊 

 

15代・世尊寺行豊 16代・世尊寺行康 17代・世尊寺行季

【藤原北家冬嗣流長良流九条系御堂流松殿家】

●松殿家は、摂関家として創設された公家のひとつ。

藤原氏北家嫡流藤原忠通の次男・松殿基房が祖で、家名の由来は京都に松殿と呼ばれる屋敷を構えたことによる。

戦国時代に絶家したが、2度再興をするも絶家。

本来であれば五摂家近衛家九条家に並ぶ家格の家であるが、藤原北家嫡流でありながら摂関は初代とその子の2人のみ、その後は大体が参議、出世しても権大納言がやっとであった。

初代・松殿基房 2代・松殿師家 3代・松殿忠房 4代・松殿兼嗣 5代・松殿通輔 6代・松殿忠嗣 7代・松殿冬輔 8代・松殿忠行

​​​​【藤原北家冬嗣流長良流九条系庶流閑院流】

●閑院流とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。
●閑院はもともと北家繁栄の基礎を築いた藤原冬嗣の邸宅で、公季がこれを伝領し、平安末期から鎌倉初期にかけては里内裏としても使用された。

初代・藤原公季 2代・藤原実成 3代・藤原公成 4代・藤原実季 5代・藤原公実

​​​​【藤原北家冬嗣流長良流九条系庶流閑院流嫡流三条家】

●三条家(旧字体:三條)は、藤原北家閑院流の嫡流にあたる。

●5代目閑院流当主・公実の次男・実行から始まる。

●分家の正親町三条家と区別すため、転法輪三条家や転法輪家とも呼ばれることもある。

 

初代・三条実行 2代・三条公教 3代・三条実房 4代・三条公房 5代・三条実親 6代・三条公親 7代・三条実重 8代・三条公茂

 

9代・三条実忠 10代・三条公忠 11代・三条実冬 12代・三条公冬 13代・三条実量 14代・三条公敦 15代・三条実香 

 

16代・三条公頼 17代・三条実教 18代・三条実綱 19代・三条公広 20代・三条実秀 21代・三条公富 22代・三条実治 

23代・三条公兼 24代・三条公充 25代・三条実顕 26代・三条季晴 27代・三条実起 28代・三条公修 29代・三条実万 

30代・三条公睦 31代・三条実美 32代・三条公美 33代・三条実憲 34代・三条公輝 35代・三条実春 36代・三条公隆

​​​​​​【藤原北家冬嗣流長良流九条系庶流閑院流三条家庶流正親町三条家(嵯峨家)】

​●正親町三条家は、のちに嵯峨家と呼ばれる。

【藤原北家冬嗣流長良流九条系庶流閑院流三条家庶流正親町三条家(嵯峨家)庶流三条西家】

​●

初代・三条西公時 2代・三条西実清 3代・三条西公保 4代・三条西実隆 5代・三条西公条 6代・三条西実枝 7代・三条西公国

8代・三条西実条 9代・三条西公勝 10代・三条西実教 11代・三条西公福 12代・三条西実称 13代・三条西公里 14代・三条西延季

15代・三条西実勲 16代・三条西季知 17代・三条西公允 18代・三条西実義 19代・三条西公正 20代・三条西実謙 

 

21代・三條西公彦

藤原北家冬嗣流長良流九条系庶流閑院流西園寺家

 

初代・藤原通季 2代・藤原公通 3代・藤原実宗 4代・西園寺公経 5代・西園寺実氏 6代・西園寺公相 7代・西園寺実兼 

 

8代・西園寺公衡 9代・西園寺実衡 10代・西園寺公宗 11代・西園寺実俊 12代・西園寺公永 13代・西園寺実永 

 

14代・西園寺公名 15代・西園寺実遠 16代・西園寺公藤 17代・西園寺実宣 18代・西園寺公朝 19代・西園寺実益 

 

20代・西園寺公益 21代・西園寺実晴 22代・西園寺公満 23代・西園寺実尚 24代・西園寺公宣 25代・西園寺公遂 

 

26代・西園寺実輔 27代・西園寺致季 28代・西園寺公晃 29代・西園寺賞季 30代・西園寺公兼 31代・西園寺実韶 

 

32代・西園寺公氏 33代・西園寺寛季 34代・西園寺治季 35代・西園寺公潔 36代・西園寺師季 37代・西園寺公望 

 

38代・西園寺八郎 39代・西園寺不二男 40代・西園寺公友

​​​​【藤原北家冬嗣流長良流九条系庶流閑院流徳大寺家】

●閑院流の流祖である太政大臣藤原公季の五世孫権大納言藤原公実の五男・左大臣徳大寺実能を祖とする。

初代・徳大寺実能 2代・徳大寺公能 3代・徳大寺実定 4代・徳大寺公継 5代・徳大寺実基 6代・徳大寺公孝 7代・徳大寺実孝 

 

8代・徳大寺公清 9代・徳大寺実時 10代・徳大寺公俊 11代・徳大寺実盛 12代・徳大寺公有 13代・徳大寺実淳 

 

14代・徳大寺公胤 15代・徳大寺実通 16代・徳大寺公維 17代・徳大寺実久 18代・徳大寺公信 19代・徳大寺実維 

 

20代・徳大寺公逸 21代・徳大寺公観 22代・徳大寺公全 23代・徳大寺実憲 24代・徳大寺公城 25代・徳大寺実祖 

 

26代・徳大寺公迪 27代・徳大寺実堅 28代・徳大寺公純 29代・徳大寺実則 30代・徳大寺公弘 31代・徳大寺実厚 

 

32代・徳大寺公 33代・徳大寺家

​​​​【藤原北家冬嗣流高藤流勧修寺流吉田家庶流清閑寺家庶流梅小路家】

●梅小路家は、清閑寺共房の三男・定矩が「梅小路」を称したのに始まる。

●梅小路とは、現在の京都市下京区梅小路周辺の地名に由来するとされる。

初代・梅小路定矩 2代・梅小路共方 3代・梅小路共慶 4代・梅小路定喬 5代・梅小路共経 6代・梅小路定福 7代・梅小路共之 

 

8代・梅小路定肖 9代・梅小路共久 10代・梅小路定徳 11代・梅小路定輯 12代・梅小路定明 13代・梅小路定行 14代・梅小路定雄

【藤原北家冬嗣流良門流高藤流勧修寺流庶家上杉氏山内上杉家】

藤原清房の次男・重房から始まる。

●建長4年(1252年)、鎌倉では5代執権・北条時頼により鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣が京へ送還され、新たに後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王が下向し6代将軍に就任するが、『続群書類従』所載「上杉系図」に拠れば、重房はその介添えとして共に鎌倉へ供奉し、丹波国何鹿郡上杉庄を賜り、以後上杉氏を称した。

●戦国武将・上杉謙信もこの家系である。

初代・上杉重房 2代・上杉頼重 3代・上杉憲房 4代・上杉憲方 5代・上杉憲定 6代・上杉憲基 7代・上杉憲実 8代・上杉清方 

 

9代・上杉憲忠 10代・上杉房顕 11代・上杉顕定 12代・上杉顕実 13代・上杉憲房 14代・上杉憲寛 15代・上杉憲政 

 

16代・上杉謙信 17代・上杉景虎 

​​​​​【藤原北家良房流】

●藤原冬嗣次男が創設した。

初代・藤原良房​​

【藤原北家魚名流】

魚名流 末茂流 山蔭流 秀郷流 利仁流

【藤原北家魚名流山陰流中村氏伊達宗家駿河伊達氏紀州伊達家陸奥伯爵家】

1894年(明治27年)子爵を叙爵することに始まる。

●1895年(明治28年)伯爵を叙爵する。

初代・陸奥宗光 2代・陸奥広吉 3代・陸奥イアン陽之助

【藤原北家魚名流秀郷流内藤氏】

●内藤氏の由来は、藤原の内舎人が由来、藤原頼俊の子・行俊が内藤を名乗ることから始まる。

【藤原北家魚名流秀郷流内藤氏周防長門系三河内藤氏】

【藤原北家魚名流秀郷流内藤氏周防長門系三河内藤氏延岡内藤家宗家】

 

 

初代・内藤政長 2代・内藤忠興 3代・内藤義概 4代・内藤義孝 5代・内藤義稠 6代・内藤政樹 7代・内藤政陽 8代・内藤政脩 

 

9代・内藤政韶 10代・内藤政和 11代・内藤政順 12代・内藤政義 13代・内藤政挙 14代・内藤政道 15代・内藤久邦

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏】

●武門で、代々常陸国守護代を勤めた。

●天仁2年(1109年)、秀郷の玄孫である通延が太田郷の地頭に任ぜられ、太田城を築いて太田大夫と称する。

●その後、佐竹氏初代・佐竹昌義の久慈郡佐竹郷入部や、2代隆義の太田城接収に伴い旧領からの撤退を余儀なくされ、通延の孫の通盛は小野崎城を築いて小野崎を名乗り、通盛の子の通長の代より佐竹氏に臣従、以降佐竹氏の宿老となった。

 

初代・太田通延 2代・太田通成 3代・小野崎通盛 4代・小野崎通長 5代・小野崎通政 6代・小野崎通経 7代・小野崎為通 

 

8代・小野崎高通 9代・小野崎常通 10代・小野崎行通 11代・小野崎通胤

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏嫡流山尾小野崎氏】

●通胤の嫡男通春は山尾城にあり、嫡流は山尾小野崎氏となり、次男通房は石神小野崎氏の祖、三男通業は額田小野崎氏の祖となった。

●嫡流である山尾小野崎氏は佐竹氏に仕え、佐竹氏の秋田藩移封により移住した。

●19代目成通の後継に佐竹義篤の子の義昌が入り、小野崎氏は主家の一門格ともなった。山尾、石神の両家も佐竹重臣を経て近現代まで続いている。

 

12代​・小野崎通春 13代・小野崎通郷 14代・小野崎通綱 15代・小野崎憲通 16代・小野崎朝通 17代・小野崎親通 

 

18代・小野崎通載 19代・小野崎成通 20代・小野崎義昌 21代・小野崎宣政 22代・小野崎隆政 23代・小野崎甚治

 

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏庶流根本氏】

●根本盛通の父として、通成と通静が上げられているが、ミチシゲとミチシズの誤字とも考えられ、このサイトでは同一人物とする。

●2代目・太田通成の次男・盛通が常陸国信太郡根本(現在の茨城県美浦村根本)を領し根本氏を起こしたことにはじまる。

初代・根本盛通 2代・根本通治 3代・根本通門 4代・根本忠通 5代・根本通重

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏庶流赤須氏】

●常陸国の赤須氏は藤原秀郷の五世孫・太田大夫通延の子・佐都荒大夫通成の三男・彦四郎通頼が久慈郡赤須村により赤須氏を起こしたという。赤須城主にして佐都神社の長官を務める。家系は守護佐竹氏に仕える者と同族の守護代小野崎氏に仕える者とがあった。

●6代目は5代目の父親の名前を襲名した。

初代・赤須通頼 2代・赤須通俊 3代・赤須通郷 4代・赤須通景 5代・赤須通胤 6代・赤須通胤

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏庶流茅根氏】

●小野崎通長の次男通景が、茅根大和守を称して、茅根氏を興した。

●茨城県常陸太田市茅根町に茅根城を築城し、代々城主の座を世襲した

初代・茅根通景 2代・茅根通茂 3代・茅根通利 4代・茅根通村

​​

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏庶流石神小野崎氏】

●石神城城主。同族の額田小野崎氏と戦った。

初代・石神通綱 2代・石神通老 3代・石神通長 4代・石神通隆 5代・石神通信

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏庶流額田小野崎氏】

●額田城城主。同族の石神小野崎氏と戦った。

初代・額田通重 2代・小野崎通栄 3代・額田小野崎氏当主 4代・額田小野崎氏当主 5代・額田小野崎氏当主 6代・小野崎従通 

 

7代・小野崎昭通

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏嫡流山尾小野崎氏庶流小貫氏】

●藤原秀郷より20代目にあたる小野崎氏第13代当主小野崎通春の次男・通伯が常陸国久慈郡小貫村にあって小貫通伯を名乗った。

 

初代・小貫通伯 2代・小貫通勝 3代・小貫通定 4代・小貫頼重 5代・小貫新九郎 

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏嫡流山尾小野崎氏庶流小貫氏宗家】

●新九郎の子・小貫元勝が小貫家を継ぎ、宗家と名乗ったことに始まる。

初代・小貫元勝 2代・小貫頼達

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏嫡流山尾小野崎氏庶流小貫氏小貫次男家(金治家)】

●新九郎の次男・小貫俊茂が独立した。

初代・小貫俊茂 2代・小貫彦八郎 3代・小貫頼休

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏山尾小野崎氏庶流​小貫氏小貫次男家(金治家)庶家頼章家久保田小貫家】

●次男家初当主・俊茂の子・頼章が独立した。

●3代目・小貫政緒が現秋田県秋田市の久保田へ移住したことで久保田小貫家と名乗った。

初代・小貫頼章 2代・小貫甚七某 3代・小貫政緒 4代・小貫忠甫 5代・小貫忠国 6代・小貫頼紀 7代・小貫頼匡 8代・小貫頼屋 

 

9代・小貫頼紀 10代・小貫頼助 11代・小貫頼讃 12代・小貫頼観 13代・小貫頼誠 14代・小貫頼寿 15代・小貫太郎 

 

16代・小貫瑞夫

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏嫡流山尾小野崎氏庶流助川氏】

初代・助川通定 2代・助川通秀 3代・助川通高 4代・助川通満 5代・助川通本 6代・助川通繁 7代・助川通厚 8代・助川通広 

9代・助川通利 10代・助川通利 11代・助川右衛門 12代・助川通高

 

【藤原北家魚名流秀郷流太田氏小野崎氏嫡流山尾小野崎氏庶流相賀氏】

●相賀氏は、小野崎第十四代山城守憲通の二子又三郎直通が相賀館に住んだことに因んで名乗ったとする。

 

初代・相賀直通 2代・相賀通行 3代・相賀通孝 4代・相賀通清

 

【藤原北家魚名流秀郷流河辺氏庶流那珂氏庶家常陸江戸氏】

初代・江戸通高 2代・江戸通景 3代・江戸通房 4代・江戸通秀 5代・江戸通長 6代・江戸通雅 7代・江戸通泰 8代・江戸忠通 

 

9代・江戸通政 10代・江戸重通

【藤原北家魚名流秀郷流山内氏庶流土佐山内氏】

 

 

​【初代藤原北家魚名流秀郷流山内氏庶流土佐山内氏分家子爵家】

●15代目土佐山内氏当主・山内容堂の長男・山内豊尹が1879年(明治12年)10月に山内家から分家。

 

初代・山内豊尹 2代・山内豊陽 3代・山内豊健

【藤原北家魚名流利仁流齋藤氏】

 

【藤原北家魚名流利仁流齋藤氏加藤氏光泰系分家】

●本家14代目・秋泰の庶長子・泰治が分家独立する。

初代・加藤泰治 2代・加藤廉之

【藤原北家魚名流利仁流齋藤氏瀧口氏庶家美濃前田氏加賀前田家】

【藤原北家魚名流利仁流齋藤氏瀧口氏庶家美濃前田氏加賀前田家越中富山前田家】

●3代目加賀前田家・前田利常の次男・前田利次が加賀前田家の分家として始まる。

初代・前田利次 2代・前田正甫 3代・前田利興​ 4代・​前田利隆 5代・前田利幸​ 6代・前田利與​ 7代・前田利久​ 8代・​前田利謙 

 

9代・​前田利幹 10代・前田利保​ 11代・前田利友​ 12代・前田利聲​ 13代・​前田利同 14代・前田利男 15代・前田利信 

 

16代・前田章利

​【藤原式家】

 

初代・藤原宇合

 

【藤原京家】

初代・藤原麻呂 2代・藤原浜成

【​藤原氏、藤堂氏】

●​藤堂氏は、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)が発祥。

●三河守藤原景盛が足利将軍に仕えて近江国犬上郡数村を支配して藤堂と称したことに始まるとしている

●藤原景盛の出自未詳の為、“藤原氏、藤堂氏”と記す。

初代・藤堂景盛 2代・藤堂景冨 3代・藤堂景持 4代・藤堂景兼 5代・藤堂景高 6代・藤堂高信 7代・藤堂忠高 

 

8代・藤堂虎高

【藤原氏、藤堂氏宗家】

●8代目藤堂氏当主・藤堂虎高の次男・藤堂高虎が伊勢国津藩藩主になったことから始まる。

●津藩藤堂家とも称される。

初代・藤堂高虎 2代・藤堂高次 3代・藤堂高久 4代・藤堂高睦 5代・藤堂高敏 6代・藤堂高治 7代・藤堂高朗 

 

8代・藤堂高悠 9代・藤堂高嶷 10代・藤堂高兌 11代・藤堂高猷 12代・藤堂高潔 13代・藤堂高紹 14代・藤堂高廷 

 

15代・藤堂高正​​​​​​​​​​

【藤原氏、藤堂氏久居家】

●2代目宗家・藤堂高次の次男・藤堂高通が初代久居藩藩主になったことから始まる。

●16代目・藤堂高邦の時に廃藩置県により、久居藩最後の藩主になる。

初代・藤堂高通 2代・藤堂高堅 3代・藤堂高陳 4代・藤堂高治 5代・藤堂高朗 6代・藤堂高雅 7代・藤堂高嶷 

 

8代・藤堂高朶 9代・藤堂高興 10代・藤堂高衡 11代・藤堂高矗 12代・藤堂高兌 13代・藤堂高邁 14代・藤堂高秭 

 

15代・藤堂高聴 16代・藤堂高邦 17代・藤堂高義 18代・藤堂高寛 19代・藤堂正彦 20代・藤堂高彦​​​

【忌部氏】

【忌部氏織田氏織田弾正忠家】

【忌部氏織田氏織田弾正忠家信雄系高長流】

●織田信長の孫。

●織田信雄の五男・高長から始まる。

初代・織田高長 2代・織田長頼 3代・織田信武 4代・織田信休 5代・織田信朝 6代・織田信旧 7代・織田信憑 8代・織田信守

 

9代・織田信古 10代・織田信貞 11代・織田信敬 12代・織田信民 13代・織田信親 14代・織田信大 15代・織田信和 

 

16代・織田孝一

【物部大連】

●物部氏は大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命が祖先と伝わる天神系の神別氏族。穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。

●姓(かばね)の一つである連(むらじ)の中でも軍事を司る伴造出身の有力氏族である大伴氏と物部氏が大連となった。

●物部十千根の名前が第11代・垂仁天皇の御代に、物部氏として初めて見える。

​●極悪人と言われる弓削道鏡も物部氏である。

※当主のような家族の代表者としての名前が見えないので、物部氏の有名な人物をピックアップして掲載する。

物部十千根 → 物部武諸隅 →​ 物部伊莒弗 → 物部 目 → 物部荒山 → 物部木蓮子 → 物部麁鹿火 → 物部尾輿 

 

→ 物部贄子 → 物部御狩 →​ 物部守屋  → 物部恵佐古 → 物部多都彦 → 物部 目 → 弓削道鏡

物部氏越智氏庶流河野氏支流稲葉氏正成系稲葉氏宗家正成系稲葉家宗家

​●正成系稲葉家宗家は、江戸時代初期、稲葉正成から始まる。

初代・稲葉正成 2代・稲葉正勝 3代・稲葉正則 4代・稲葉正往 5代・稲葉正知 6代・稲葉正任 7代・稲葉正恒 8代・稲葉正親 

 

9代・稲葉正益 10・稲葉正弘 11・稲葉正諶 12代・稲葉正備 13・稲葉正発 14・稲葉正守 15・稲葉正誼 

 

16代・稲葉正邦 17・稲葉正縄 18・稲葉正凱 19​代・稲葉正輝 

【蘇我氏】

●武内宿禰第三子・蘇賀石河宿禰から始まる。宿禰は尊称。

●『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、羽田矢代宿禰・紀角宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという。これは日本の歴史が持つ謎を紐解く一つでもある。日本の起源をBC660年に定めた場合の応神天皇3年は272年になるが、百済の辰斯王が殺されたのは392年となり、応神天皇3年=392年と定められ、日本建国年を考えるヒントになる。

●“韓子”や“高麗”など、朝鮮半島と関係する文字が見える。祖父・武内宿禰は神功皇后が起こした朝鮮征伐に関わった中心人物でもあるので、朝鮮半島と関連性が考えられる。また、“高麗”を駒とし、馬子という名前。さらには、蘇我氏の本貫である、奈良県橿原市曽我にある南曽我遺跡からは、5世紀後半から末頃の馬墓が発見されており、韓子が騎馬戦で活躍した時期と時期が重なっているなど、馬との関係が強いことが伺える。

●大化の改新時(645年)に成立する氏制度が成立する前で、氏・カバネは未成立であるため、「蘇賀氏、蘇我氏、宗我氏」というウジ名のような冠称は記紀編纂時の氏姓制度の知識に基づいて付されたものになる。

※当主のような家族の代表者としての名前が見えないので、蘇我氏の有名な人物をピックアップして掲載する。

初代・蘇賀石河宿禰 → 蘇我満智 → 蘇我韓子 → 蘇我高麗 → 蘇我稲目 → 蘇我馬子 → 蘇我蝦夷 → 蘇我入鹿

→ 蘇我倉山田石川麻呂

【紀氏丈部氏有道氏児玉氏奥平氏】

初代・奥平定家 2代・奥平貞俊 3代・奥平貞久 4代・奥平貞昌 5代・奥平貞勝 6代・奥平定能 7代・奥平信昌 8代・奥平家昌

 

9代・奥平忠昌 10代・奥平昌能 11代・奥平昌章 12代・奥平昌成 13代・奥平昌敦 14代・奥平昌鹿 15代・奥平昌男 

 

16代・奥平昌高 17代・奥平昌暢 18代・奥平昌猷 19代・奥平昌服 20代・奥平昌邁 21代・奥平昌恭

【橘氏長者】

●第30代・敏達天皇の皇子・難波皇子を祖とし、母・県犬養三千代と共に橘氏に臣籍降下したのが始まり。

初代・橘 諸兄 2代・橘 奈良麻呂 3代・橘 島田麻呂 4代・橘 真材 5代・橘 峯範 6代・橘 広相 7代・橘 公材 8代・橘 好古

9代・橘 敏政 10代・橘 則光 11代・橘 則隆 12代・橘 成任 13代・橘 以綱 14代・橘 広房 15代・橘 以長 16代・橘 以政

17代・橘 以経 18代・橘 以良 19代・橘 以隆 20代・橘 以材 21代・橘 以季 22代・橘 以基 23代・薄 以盛 24代・薄 以緒 

 

25代・薄 諸光

【丹氏新里氏安保氏庶流大俵氏大田原氏大関氏

『那須系図説』や『伊王野系図』を基に大関氏は常陸国小栗氏より出た平姓と考えるのが正しいという説もあるが、このサイトでは、第28代・宣化天皇の後裔である、丹氏と考える。

●大関氏は下野国那須郡に存在した黒羽藩の歴代藩主で黒羽城城主。藩庁は黒羽陣屋(現在の栃木県大田原市前田)に置かれた。

初代・大関高清 2代・大関光清 3代・大関清実 4代・大関氏清 5代・大関基清 6代・大関家清 7代・大関増清 8代・大関廣増 

【多治比氏】

【多治比氏丹党秩父氏勅使河原氏庶流加治氏水戸藩附家老中山家当主】

丹党は、第28代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔を称し、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した武蔵七党の一つである武士団の一つ。

高麗五郎経家が武蔵国高麗郡加治郷に定着したことから当初は加治氏を名乗った。その13代目の家勝が同郷の中山村に移住したため以後は中山氏を称した。中山家勝は武蔵七党丹党の一族(加治氏)として武蔵を基盤に活動し、山内上杉家に仕えた。ついで後北条氏の北条氏康に仕えた。

天正18年(1590年)、小田原征伐における八王子城攻防戦で中山家範は討死するが、戦後、中山信吉は兄・照守とともに徳川家康に召し抱えられ、慶長12年(1607年)11月、家康の十一男頼房が常陸国下妻10万石に配されるに伴い、家老として附属されたことに始まり、代々家老として徳川家に仕える。

初代・中山信吉 2代・中山信政 3代・中山信治 4代・中山信行 5代・中山信成 6代・中山信敏 7代・中山信順 8代・中山信昌 

 

9代・中山政信 10代・中山信敬 11代・中山信情 12代・中山信守 13代・中山信宝 14代・中山信徴 15代・中山信実

【桓武平氏】

桓武平氏高望王流坂東平氏国香流直方流熊谷氏三河熊谷氏宇利熊谷氏高力氏

●三河国額田郡高力郷の発祥。出自は熊谷氏一族のうち三河国八名郡・宇利城を拠点とした宇利熊谷氏とする一族である。

●家祖とされる重長より松平氏(徳川氏)に仕え、徳川家康の重臣である高力清長などを輩出した。

初代・高力重長 2代・高力安長 3代・高力清長 4代・高力正長 5代・高力忠房 6代・高力隆長 7代・高力忠弘 8代・高力清彌 

 

9代・高力清慶 10代・高力長昌 11代・高力長民 12代・高力長成 13代・高力忠直 14代・高力忠行 15代・高力直三郎

桓武平氏高望王流坂東平氏国香流直方流熊谷氏三河熊谷氏宇利熊谷氏高力氏分家高力政房家

●高力政房家は、忠房の三男・政房より分家した家である。

初代・高力政房 2代・高力宗長 3代・高力長氏 4代・高力定重 5代・高力長行 6代・高力直賢 7代・高力直道 8代・高力直行

​【桓武平氏高望王流坂東平氏国香流維衡流伊勢平氏戸沢氏

戸沢氏は平忠正の子、平維盛より始まり大和国三輪を本拠地とした。

●平衡盛の代に木曾義仲に属していたが、その不義を憎み奥州磐手郡滴石庄(岩手県雫石町)に下向した。1185年に源頼朝に臣従し、屋島の戦いや奥州合戦での活躍が認められ、磐手郡滴石庄内に4千6百町歩の土地を与えられ大身の御家人となる。その時に滴石庄の戸沢邑に居を構えたことから「戸沢氏」と称した。

●陸奥国、後に出羽国を支配した国人・戦国大名になり、江戸時代には出羽国新庄藩主を世襲し、明治維新後華族の子爵家に列する

初代・戸沢衡盛 2代・戸沢兼盛 3代・戸沢親盛 4代・戸沢克盛 5代・戸沢勝盛 6代・戸沢玄盛 7代・戸沢英盛 8代・戸沢氏盛 

 

9代・戸沢伊盛 10代・戸沢豊盛 11代・戸沢家盛 12代・戸沢久盛 13代・戸沢寿盛 14代・戸沢征盛 15代・戸沢秀盛 

 

16代・戸沢道盛 17代・戸沢盛重 18代・戸沢盛安 19代・戸沢光盛 20代・戸沢政盛 21代・戸沢正誠 22代・戸沢正庸 

 

23代・戸沢正勝 24代・戸沢正諶 25代・戸沢正産 26代・戸沢正良 27代・戸沢正親 28代・戸沢正胤 29代・戸沢正令 

 

30代・戸沢正実 31代・戸沢正定 32代・戸沢正己 33代・戸沢正修 34代・戸沢奎三郎 35代・戸沢 充

​【桓武平氏高望王流坂東平氏良文流房総平氏野与氏渋江家宗家

●下野国の小山秀綱家臣・荒川秀景の子・渋江政光が、20歳の時に佐竹家の重臣であった渋江氏を相続することになり、渋江氏光の養子になり荒川弥五郎から渋江内膳政光に改名することに始まる。

初代・渋江政光 2代・渋江宣光 3代・渋江光久 4代・渋江隆光 5代・渋江処光 6代・渋江格光 7代・渋江峯光 8代・渋江局光 

 

9代・渋江明光 10代・渋江敦光 11代・渋江和光 12代・渋江厚光 

 

【桓武平氏高望流坂東平氏良文流鎌倉氏流長江氏岩手氏竹中氏嫡流重元流】

室町時代(戦国時代)、岩手重久の子・重氏が竹中を名乗ったことに始まる。

●重氏の子・重元からは旗本としての嫡流重元流とも言われる。

美濃守護土岐家と猶子などの姻戚関係となったものと思われ戦国時代以降は源氏庶流を称す。

初代・竹中重氏 2代・竹中重元 3代・竹中重治 4代・竹中重門 5代・竹中重常 6代・竹中重高 7代・竹中重長 8代・竹中重栄 

 

9代・竹中元敏 10代・竹中元儔 11代・竹中重寛 12代・竹中重英 13代・竹中重知 14代・竹中重明 15代・竹中重固

【稲垣氏】

【稲垣氏三河稲垣氏宗家鳥羽藩稲垣家】

初代・稲垣長茂 2代・稲垣重綱 3代・稲垣重昭 4代・稲垣重富 5代・稲垣昭賢 6代・稲垣昭央 7代・稲垣長以 8代・稲垣長続 

 

9代・稲垣長剛 10代・稲垣長明 11代・稲垣長行 12代・稲垣長敬 13代・稲垣長昌 14代・稲垣長賢 15代・稲垣長克 

 

16代・稲垣長範

【秦氏】

●秦氏は、東漢氏などと並び有力な帰化氏族である。

●秦始皇帝12世の孫、功満王の子、融通王の苗裔で、第15代・応神天皇の御代に来日したと自称する。

●秦氏一族は稲荷神社など多くの神社を創祀したことでも知られており、蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草なども広めたと言われている。

●秦氏の拠点は、紀伊郡深草の地のほかに、葛野郡太秦の地が有名であり、6世紀中葉から7世紀初頭頃に、秦氏の族長が深草から太秦に移住したか、あるいは深草から太秦の一族に族長権が移動したことが考えられる。あるいは、深草の秦氏は直系ではなく、傍系であった可能性もある。

●「深草」の名前は、「伊奈利社」や、『書紀』巻第二十四の山背大兄王の変の際の「深草屯倉」などに現れている。

​​

秦氏河勝流葛野秦氏

秦氏大津父流深草秦氏

秦氏文成流惟宗氏

秦氏文成流惟宗氏島津氏宗家

秦氏文成流惟宗氏島津氏兄系総州家

秦氏文成流惟宗氏島津氏弟系奥州家

【秦氏河勝流葛野秦氏】

【秦氏大津父流深草秦氏】

【秦氏文成流惟宗氏】

​●惟宗氏は、883年(元慶7)秦宿禰永原、秦公直宗、秦忌寸永宗、秦忌寸越雄、秦公直本ら男女19人に、第57代・陽成天皇より惟宗朝臣を賜ったことに始まる渡来系氏族。

●直宗・直本兄弟は877年讃岐国香川郡から左京に移貫した者だが、永宗は山城の秦氏。

●直宗は883年には明法博士であり、この一族からは直宗の子と推定される『延喜格式』の撰者善経、直本の子で『本朝月令』の著者公方、その子孫の允亮、允正、道成など、平安中期に一流の明法博士を輩出した。また永原の子孫には具範、孝言などの文人・歌人や、俊雅とその子孫のように医道で知られた人々もいる。なお1088年(寛治2)国任の明法博士任命を最後に、惟宗氏から明法博士に任じられる者は後を絶った。

【秦氏文成流惟宗氏島津氏宗家】

●島津氏は、鎌倉時代から明治時代初期まで薩摩を領し、廃藩置県後、華族の公爵家となった家を宗家とする薩摩島津氏が最も有名だが、他にも多数の支流がある。

●惟宗広言の子・忠久が島津氏を名乗ったことに始まる。

●正平18年/貞治2年(1363年)薩摩守護職を三男の師久(総州家)に、大隅守護職を四男の氏久(奥州家)にそれぞれ譲り、同年7月、95歳の長寿を以って逝去。両家は征西府・九州探題・今川了俊の存在する間は協力し合って外敵にあたったが共通の敵が消滅すると、やがて戦国時代の前触れのように互いに勢力を争うようになる。

初代・島津忠久 2代・島津忠時 3代・島津久経 4代・島津忠宗 5代・島津貞久

 

【秦氏文成流惟宗氏島津氏兄系総州家】

●​​​宗家5代・島津貞久が、正平18年/貞治2年(1363年)薩摩守護職を三男の師久(総州家)に、大隅守護職を四男の氏久(奥州家)にそれぞれ譲り、同年7月、95歳の長寿を以って逝去。両家は征西府・九州探題・今川了俊の存在する間は協力し合って外敵にあたったが共通の敵が消滅すると、やがて戦国時代の前触れのように互いに勢力を争うようになる。

●総州家は、薩摩国の守護大名島津氏の分家。

●初代当主の島津師久が上総介を称していたことから総州家と名がついた。

●川内碇山城を居城としていた。

●島津久林​の代で絶家。

​6代(総州家初代)・島津師久 7代(総州家2代)・島津伊久 8代(総州家3代)・島津守久 9代(総州家4代)・島津久世 

 

10代(総州家5代)・島津久林​​​​​

【秦氏文成流惟宗氏島津氏弟系奥州家】

●奥州家は、薩摩守護島津家の別名。初代当主である島津氏久が陸奥守を称していたことからこの名がついた。

●​​​宗家5代・島津貞久が、正平18年/貞治2年(1363年)薩摩守護職を三男の師久(総州家)に、大隅守護職を四男の氏久(奥州家)にそれぞれ譲り、同年7月、95歳の長寿を以って逝去。両家は征西府・九州探題・今川了俊の存在する間は協力し合って外敵にあたったが共通の敵が消滅すると、やがて戦国時代の前触れのように互いに勢力を争うようになる。

●実際に奥州家と呼ばれるのは初代氏久・2代元久のみで、3代以降は奥州家の流れであるが薩摩・大隅守護としての島津家当主であり、この名で呼ばれることは少ない。

6代(奥州家初代)・島津氏久 7代(奥州家2代)・島津元久 8代・島津久豊 9代・島津忠国 10代・島津立久 11代・島津忠昌 

 

12代・島津忠治 13代・島津忠隆 14代・島津勝久 15代・島津貴久 16代・島津義久 17代・島津義弘 18代・島津忠恒 

 

19代・島津光久 20代・島津綱貴 21代・島津吉貴 22代・島津継豊 23代・島津宗信 24代・島津重年 25代・島津重豪 

 

26代・島津斉宣 27代・島津斉興 28代・島津斉彬 29代・島津忠義 30代・島津忠重 31代・島津忠秀 32代・島津修久 

 

33代・島津忠裕 

【東漢氏】

後漢霊帝の曾孫系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。

後漢霊帝の玄孫高貴王が日本に帰化したのに始まると伝承される。

集団の総称とされ、「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族と考えられている。

 

東漢氏大蔵氏 

 

東漢氏大蔵氏原田氏

 

東漢氏大蔵氏原田氏秋月氏

高鍋藩秋月家藩主

東漢氏大蔵氏原田氏秋月子爵家

高鍋藩秋月藩主家分家木脇領主家旗本寄合席秋月家

【東漢氏大蔵氏】

初代・大蔵広隅

【東漢氏大蔵氏原田氏】

​●大蔵春実平安時代伊予で反乱を起こした藤原純友の討伐に功績をあげ、その恩賞で筑前国御笠郡原田を所領として与えられて当初は「原田氏」と称したという。

​初代・原田春実

【東漢氏大蔵氏原田氏秋月氏】

●秋月氏は、本姓は大蔵氏。平安時代から九州筑前国に勢力を張った。1587年の豊臣秀吉の九州征伐で一時所領を没収されたが、秋月種長に日向国財部 (のちに日向国高鍋)に3万石が与えられて大名として存続。江戸時代も高鍋藩 (秋月藩) の藩主家として続き、明治維新後は子爵家に列した。

初代・秋月種雄 2代・秋月種幸 3代・秋月種家 4代・秋月種頼 5代・秋月種資 6代・秋月種貞 7代・秋月種高 8代・秋月種顕

9代・秋月種道 10代・秋月種忠 11代・秋月種氏 12代・秋月種照 13代・秋月種朝 14代・秋月種時 15代・秋月文種 

 

16代・秋月種実 17代・秋月種長 18代・秋月種春 19代・秋月種信 20代・秋月種政 21代・秋月種弘 22代・秋月種美 

 

23代・秋月種茂 24代・秋月種徳 25代・秋月種任 26代・秋月種殷 27代・秋月種樹 28代・秋月種繁 29代・秋月種英 

 

30代・秋月種苞 31代・秋月種久 32代・秋月種高

【高鍋藩秋月藩主家】

●17代目秋月家当主・秋月種長から始まり、秋月家当主が代々藩主を務める。​

●1869年(明治2年)26代目秋月家当主・秋月種殷の時、版籍奉還により、藩主から知事となるも、1871年(明治4年)廃藩置県により、高鍋藩秋月家藩主としては終焉を迎える。

初代・秋月種長 2代・秋月種春 3代・秋月種信 4代・秋月種政 5代・秋月種弘 6代・秋月種美 7代・秋月種茂 

 

8代・秋月種徳 9代・秋月種任 10代・秋月種殷

【東漢氏大蔵氏原田氏秋月氏高鍋秋津子爵家】

●明治維新後、華族制度成立によって28代目秋月氏当主・秋月種繁が子爵になる。

●1947年(昭和22年)華族制度廃止にともない、子爵家は2代で終わる。

初代・秋月種繁 2代・秋月種英 

【高鍋藩秋月藩主家分家木脇領主旗本寄合席秋月家】

●本家3代目当主・秋月種信の三男として出生した秋月種封を初代とする。

​初代・秋月種封 2代・秋月種羽 3代・秋月種輔 4代・秋月種蔭 5代・秋月種武 6代・秋月種穀 7代・秋月種備 8代・秋月種賀

9代・秋月種博 10代・秋月種記 11代・秋月種事

伊勢神宮 出雲大社 賀茂神社

伊勢神宮

●正式名所は神宮。

●他の神宮と区別するために、「伊勢」の地名を冠し伊勢神宮と通称される。

●伊勢神宮には天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮、豊受大神宮は外宮と呼ばれる。

​詳しくはコチラをクリック

 

伊勢神宮斎宮

​伊勢神宮祭主​

【伊勢神宮斎宮】

●斎宮は、日本の古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所。現在の三重県多気郡明和町にあり、跡地は「斎宮跡」として国の史跡に指定されている。平安時代以降は京都の賀茂神社に奉仕する斎王(斎院)と区別するため、伊勢の斎王自身のことも指した。伊勢斎王・伊勢斎宮とも称する。

●『日本書紀』崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。

●用明天皇朝を契機に一時途絶えたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立し、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった。

●このサイトでは、伊勢国に辿り着き伊勢神宮を創建した倭姫を初代とする。

豊鍬入姫 代・倭姫 2代・五百野皇女 3代・伊和志真皇女 4代・稚足姫皇女 5代・荳角皇女 6代・磐隈皇女 

 

7代・菟道磯津貝皇女 8代・酢香手姫皇女

<斎宮制度成立以降>

9代・大来皇女 10代・託基皇女 11代・泉皇女 12代・田形皇女 13代・託基皇女 14代・智努女王 15代・円方女王

16代・久勢女王 17代・井上内親王 18代・県女王 19代・小宅女王 20代・安倍内親王 21代・酒人内親王 22代・浄庭女王

23代・朝原内親王 24代・布勢内親王 25代・大原内親王 26代・仁子内親王 27代・氏子内親王 28代・宜子女王 29代・久子内親王

30代・晏子内親王 31代・恬子内親王 32代・識子内親王 33代・掲子内親王 34代・繁子内親王 35代・元子女王 36代・柔子内親王

 

37代・雅子内親王 38代・斉子内親王 39代・徽子女王 40代・英子内親王 41代・悦子女王 42代・楽子内親王 43代・輔子内親王

44代・隆子女王 45代・規子内親王 46代・済子女王 47代・恭子女王 48代・当子内親王 49代・嫥子女王 50代・良子内親王

51代・嘉子内親王 52代・敬子女王 53代・俊子内親王 54代・淳子女王 55代・媞子内親王 56代・善子内親王 57代・恂子内親王

58代・守子女王 59代・妍子内親王 60代・喜子内親王 61代・亮子内親王 62代・好子内親王 63代・休子内親王 64代・惇子内親王

65代・功子内親王 66代・潔子内親王 67代・粛子内親王 68代・凞子内親王 69代・利子内親王 70代・昱子内親王

71代・曦子内親王 72代・愷子内親王 73代・奨子内親王 74代・懽子内親王 75代・祥子内親王

【伊勢神宮祭主】

●飛鳥時代から現代まで続く制度。

●本来は祭主と言い、伊勢神宮のみに与えられた神職の役職。古代から明治4年に世襲制が廃止されるまで、中臣氏系が勤めてきた。

​現在(2022年の時点)は、天皇陛下の妹・黒田清子が祭主である。

◉世襲祭主時代◉

​初代・中臣御食子と、92代・河辺定長は中臣一門の出身、他は中臣二門の出身で、伊勢神宮祭主は中臣二門が務めることになっていた。

初代・中臣御食子 2代・中臣国子 3代・中臣国足​ 4代・中臣大島 5代・中臣意美麻呂 6代・中臣東人 7代・中臣広見

8代・中臣人足 9代・中臣清麻呂 10代・中臣益人 11代・大中臣清麻呂 12代・大中臣子老 13代・大中臣諸魚 

 

14代・大中臣諸人 15代・大中臣淵魚 16代・大中臣礒守 17代・大中臣毛人 18代・大中臣国雄 19代・中臣薭守

20代・中臣逸志 21代・大中臣豊雄 22代・大中臣有本 23代・大中臣安則 24代・大中臣奥生 25代・大中臣頼基

26代・大中臣公節 27代・大中臣元房 28代・大中臣能宣 29代・大中臣永頼 30代・大中臣輔親 31代・大中臣佐国

32代・大中臣兼興 33代・大中臣永輔 34代・大中臣元範 35代・大中臣輔経 36代・大中臣頼宣 37代・大中臣親定 

 

38代・大中臣公長 39代・大中臣清親 40代・大中臣親章 41代・大中臣為仲 42代・大中臣師親 43代・大中臣親隆 

 

44代・大中臣能隆 45代・大中臣隆宗 46代・大中臣能隆 47代・大中臣隆通 48代・大中臣隆世​ 49代・大中臣隆蔭 

 

50代・大中臣定世 51代・大中臣為継 52代・大中臣隆蔭 53代・大中臣定世 54代・大中臣隆直 55代・大中臣為継 

 

56代・大中臣定世 57代・大中臣隆相 58代・大中臣為継 59代・大中臣定忠 60代・大中臣為連 61代・大中臣経蔭 

 

62代・大中臣定忠 63代・大中臣蔭直 64代・大中臣隆実 65代・大中臣親忠 66代・大中臣隆実 67代・大中臣蔭直 

 

68代・大中臣親忠 69代・大中臣隆基 70代・大中臣親直 71代・大中臣親忠 72代・大中臣親世 73代・大中臣忠直 

 

74代・大中臣実直 75代・大中臣親世 76代・大中臣基直 77代・藤波清世 78代・大中臣通直 79代・藤波清忠 

 

80代・大中臣宗直 81代・藤波清忠 82代・大中臣宗直 83代・藤波清忠 84代・藤波秀忠 85代・大中臣輔直 86代・藤波伊忠 

 

87代・藤波朝忠 88代・藤波康忠 89代・藤波慶忠 90代・藤波種忠  91代・藤波友忠 92代・河辺定長 93代・藤波景忠 

 

94代・藤波徳忠 95代・藤波和忠 96代・藤波季忠  97代・藤波寛忠 98代・藤波光忠 99代・藤波教忠

親任祭主時代

初代・近衛忠房 2代・三条西季知 3代・久邇宮朝彦親王 4代・有栖川宮熾仁親王 5代・賀陽宮邦憲王 5代臨時・多嘉王 

 

5代臨時・久邇宮邦彦王 5代臨時・鷹司煕通 6代・多嘉王 6代臨時・梨本宮守正王

女性祭主時代

初代・北白川房子 2代・鷹司和子 3代・池田厚子 4代・黒田清子

【賀茂神社斎院】

初代・有智子内親王 2代・時子内親王 3代・高子内親王 4代・慧子内親王 5代・述子内親王 6代・儀子内親王 7代・敦子内親王

8代・穆子内親王 9代・直子女王 10代・君子内親王 11代・恭子内親王 12代・宣子内親王 13代・韶子内親王 14代・婉子内親王 

 

15代・尊子内親王 16代・選子内親王 17代・馨子内親王 18代・娟子内親王 19代・禖子内親王 20代・正子内親王

 

21代・佳子内親王 22代・篤子内親王 23代・斉子女王 24代・令子内親王 25代・禛子内親王 26代・官子内親王 

 

27代・悰子内親王 28代・統子内親王 29代・禧子内親王 30代・怡子女王 31代・式子内親王 32代・僐子内親王 

 

33代・頌子内親王 34代・範子内親王 35代・礼子内親王

【陸奥国】

【福島藩藩主】

●福島藩は、陸奥国南部(岩代国信夫郡)、現在の福島県福島市にあった藩である。居城は福島城。

初代・本多忠国 2・堀田正仲 3・堀田正虎 4・板倉重寛 5・板倉重泰 6・板倉勝里 7・板倉勝承 8・板倉勝任 

 

9・板倉勝行 10・板倉勝矩 11・板倉勝長 12・板倉勝俊 13・板倉勝顕 14・板倉勝己 15・板倉勝達

【大仏城〜杉妻城、杉目城〜福島城城主】

●福島城は、平安時代に杉目行信によって築城され、城内に杉妻大仏があった事から大仏城と呼ばれていた。

1532~55年(天文年間)大仏城は杉目城と改称される。

初代杉目行信と牧野相模の間が未詳の為、牧野相模以降の代数は記さない。

本多忠国以降は、福島藩の藩庁となり、藩主が城主になる。

初代杉目行信 牧野相模 伊達晴宗 杉目直宗 木村吉清 上杉景勝 本多忠国 堀田正仲 堀田正虎 板倉重寛 板倉重泰 

 

板倉勝里 板倉勝承 板倉勝任 板倉勝行 板倉勝矩 板倉勝長 板倉勝俊 板倉勝顕 板倉勝己 板倉勝達

 

【白河藩

白河藩は、江戸時代に陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した藩。藩庁は白河小峰城。

・丹羽長重 2・丹羽光重 3・榊原忠次 4・本多忠義 5・本多忠平 6・松平忠弘 7・松平直矩 8・松平基知 

 

9・松平明矩 10・松平定賢 11・松平定邦 12・松平定信 13・松平定永 14・阿部正権 15・阿部正篤 

 

16・阿部正瞭 17阿部正備 18・阿部正定 19・阿部正耆 20・阿部正外 21・阿部正静

【白河小峰城城主

白河小峰城は南北朝時代の興国元年/暦応3年(1340年)に結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。

同市内には白川城址も存在するが、地元周辺でも古くから白河城と呼称されるものはこの白河小峰城を指す。

 天正18年(1590年)、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されるとこの地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度蒲生氏が支配したが、明確な城主は存在せず、江戸時代の藩政となる。

・結城親朝 2代・小峰朝常 3代・小峰政常 4代・小峰満政 5代・小峰朝親 6代・小峰直親 7代・小峰直常 8代・小峰朝脩 

 

9代・小峰義親 10・丹羽長重 11・丹羽光重 12・榊原忠次 13・本多忠義 14・本多忠平 15・松平忠弘 

 

16・松平直矩 17・松平基知 18・松平明矩 19・松平定賢 20・松平定邦 21・松平定信 22・松平定永 

 

23代・阿部正権 24・阿部正篤 25・阿部正瞭 26阿部正備 27・阿部正定 28・阿部正耆 29・阿部正外 

 

30代・阿部正静

上野国】

【沼田城城主】

沼田城は、群馬県沼田市(上野国利根郡)。

幾つかの守護城に囲まれた堅城である。

沼田氏の居城として建築され、戦国時代後期から江戸時代初期にかけて真田氏の沼田領支配の拠点として機能した。沼田藩の藩庁。

はじめは倉内城と称した。2017年(平成29年)には、続日本100名城(116番)に選定された。

初代沼田顕泰 2代北条氏秀 3代沼田顕泰 4代上杉謙信 5代・北条氏邦 6・真田昌幸 7真田信之 

 

​8・真田信吉 9・真田熊之助 10・真田信政 11・真田信利 12・本多正永 13・本多正武 14・本多正矩 

 

15代・黒田直邦 16・黒田直純 17・土岐頼稔 18・土岐頼煕 19・土岐定経 20・土岐頼寛 21・土岐定吉 

 

22代・土岐定富 23・土岐頼布 24土岐頼潤 25・土岐頼功 26・土岐頼寧 27・土岐頼之 28・土岐頼知 

【沼田藩藩主】

●沼田藩は、上野利根郡(現・群馬県沼田市西倉内町)に存在した藩。

真田信之 ​2・真田信吉 3・真田熊之助 4・真田信政 5・真田信利 6・本多正永 7・本多正武 

 

8・本多正矩 9・黒田直邦 10・黒田直純 11・土岐頼稔 12・土岐頼煕 13・土岐定経 14・土岐頼寛 

 

15・土岐定吉 16・土岐定富 17・土岐頼布 18土岐頼潤 19・土岐頼功 20・土岐頼寧 21・土岐頼之 

 

22・土岐頼知 

 

【下野国】

黒羽城城主】

黒羽城の起源は、1576年(天正4年)に大関高増が白旗城から本拠を遷した事から始まった。

●初代・高増から3代・晴増までは安土桃山時代。

1871年(明治4年)、廃藩置県により廃城となった。

初代・大関高増 2・大関清増 3・大関晴増 4・大関資増 5・大関政増 6・大関高増 7・大関増親 8・大関増栄 

 

9代・大関増恒 10・大関増興 11・大関増備 12・大関増輔 13・大関増陽 14・大関増業 15・大関増儀 

 

16・大関増昭 17・大関増徳 18・大関増裕 19・大関増勤

 

【黒羽藩藩主】

●黒羽藩は、下野国那須郡に存在した藩の一つ。藩庁は黒羽陣屋(現在の栃木県大田原市前田)に置かれた。

●大関氏は下野の大名那須氏を支える那須七党の一つであった。

初代・大関資増 2・大関政増 3・大関高増 4・大関増親 5・大関増栄 6・大関増恒 7・大関増興 8・大関増備 

 

9・大関増輔 10・大関増陽 11・大関増業 12・大関増儀 13・大関増昭 14・大関増徳 15・大関増裕 

 

16・大関増勤

 

 

【駿河国】

【田中城城主】

●築城した今川氏の詳細が未詳のため、“代”は未詳。

酒井忠利以降は田中藩の藩庁が置かれる為藩主が城主となる。

今川氏 山県昌景 板垣信安 山県昌満 依田信蕃 高力清長 酒井忠利 松平忠重 水野忠善 松平忠晴 北条氏重 西尾忠照 

 

西尾忠成 酒井忠能 土屋政直 太田資直 太田資晴 内藤弌信 土岐頼殷 土岐頼稔 本多正矩 多正珍 本多正供 本多正温 

 

本多正意 本多正寛 本多正訥 

 

 

 

【田中藩藩主】

・酒井忠利 2・松平忠重 3・水野忠善 4・松平忠晴 5・北条氏重 6・西尾忠照 7・西尾忠成 8・酒井忠能 

 

9・土屋政直 10・太田資直 11・太田資晴 12・内藤弌信 13・土岐頼殷 14・土岐頼稔 15・本多正矩 

 

16・本多正珍 17・本多正供 18・本多正温 19・本多正意 20・本多正寛 21・本多正訥 

【越後国】

【新発田藩藩主】

●新発田藩は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部などを治めた藩。藩庁は新発田城。

●1598年、豊臣秀吉の命を受けて、それまで越後一国を領していた上杉景勝が会津に移封された後、越後は福島30万石に堀秀治、坂戸2万石に堀直寄、村上(本庄)9万石の村上義明、そして新発田の溝口秀勝といった具合に配置された。

●秀勝は1600年の関ヶ原の戦いのとき、徳川家康の東軍に与して越後に在国し、越後で発生した上杉旧臣の一揆[1]を鎮圧した功績により、家康から本領を安堵され、新発田藩6万石が成立した。越後国の譜代大名・親藩のひしめく中に位置する外様大名であった。

初代・溝口秀勝 2代・溝口宣勝 3代・溝口宣直 4代・溝口重雄 5代・溝口重元 6代・溝口直治 7代・溝口直温 8代・溝口直養 

 

9代・溝口直侯 10代・溝口直諒 11代・溝口直溥 12代・溝口直正 

【沢海藩藩主

沢海藩は、越後国蒲原郡沢海(現在の新潟県新潟市江南区横越地区)に存在した新発田藩の支藩。藩主は溝口氏。

6代目溝口氏宗家で初代新発田藩主家・溝口秀勝の次男・溝口善勝が、兄から1万2000石を分与され、それまで領していた2000石と合わせて1万4000石の大名・越後沢海藩主となった。

代・溝口善勝 2代・溝口政勝 3代・溝口政良 4代・溝口政親

【越中国】

【富山城城主】

●富山城は、越中国新川郡富山(現在の富山県富山市丸の内)にあった。

●1543年(天文12年)頃に越中東部のおよび新川郡への進出をもくろむ神保長職が、椎名氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重に命じて築城したとされる。

●前田利長​以降は、前田氏の居城となる。

初代・神保長職 2代・神保長住 3佐々成政 4前田利長 5前田利次 6前田正甫 7・前田利興​ 8​前田利隆 

 

9代・前田利幸​ 10・前田利與​ 11・前田利久​ 12前田利謙 13前田利幹 14代・前田利保​ 15代・前田利友​ 16代・前田利聲​ 

 

17代​前田利同

【富山藩藩主

●富山藩は、江戸時代越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有したで,石高は10万石、加賀藩支藩であった。

藩主は前田家で、家名松平出雲守。

●加賀藩第3代藩主前田利常(利長の弟で養子)が隠居するとき、次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石の分封を幕府に願い出て許され、富山藩が成立した。

●利次の母・珠姫は徳川秀忠の次女であることより、松平姓も持つ。

初代・前田利次 2代・前田正甫 3代・前田利興​ 4代・​前田利隆 5代・前田利幸​ 6代・前田利與​ 7代・前田利久​ 8代・​前田利謙 

 

9代・​前田利幹 10代・前田利保​ 11代・前田利友​ 12代・前田利聲​ 13代・​前田利同

【丹羽国】

【亀山城城主】

初代明智光秀 2羽柴秀勝 3豊臣秀勝 4小早川秀秋 5前田玄以 6・前田茂勝 7・岡部長盛 

 

8・松平成重 9・松平忠昭 10・菅沼定芳 11・菅沼定昭 12・松平忠晴 13・松平忠昭 14・松平忠周 

 

15・久世重之 16・井上正岑 17・青山忠重 18・青山俊春 19・青山忠朝 20・松平信岑 21・松平信直 

 

22・松平信道 23・松平信彰 24・松平信志 25・松平信豪 26・松平信義 27・松平信正

【丹羽亀山藩藩主】

初代・前田玄以 2・前田茂勝 3・岡部長盛 4・松平成重 5・松平忠昭 6・菅沼定芳 7・菅沼定昭 8・松平忠晴 

 

9・松平忠昭 10・松平忠周 11・久世重之 12・井上正岑 13・青山忠重 14・青山俊春 15・青山忠朝 

 

16・松平信岑 17・松平信直 18・松平信道 19・松平信彰 20・松平信志 21・松平信豪 22・松平信義 

 

23・松平信正

【近江国】

【大溝城歴代城主】

●1578年(天正6年)織田信澄により築城。

●1595年(文禄4年)解体。

初代・織田信澄 2・丹羽長秀 3・加藤光泰 4・生駒親正 5・京極高次 6・織田三四郎

【美濃国】

【菩提山城歴代城主】

●1559年(永禄2年)竹中重元が菩提山に菩提山城を築く。

●1600年(慶長5年)重門は関ヶ原の戦いにて東軍につき、徳川家康に菩提山城を提供する。戦後、竹中氏陣屋(岩手城)に居を移し、菩提山城は廃城となる。

初代・竹中重元 2・竹中重治 3・竹中重門

【伊勢国】

【桑名城歴代城主】

●桑名城は、三重県桑名市にあった。江戸時代は伊勢国桑名藩の藩庁が置かれた。元禄14年(1701年)に焼失。

・伊藤武左衛門 2・滝川一益 3・織田信孝 4・天野雄光 5・服部一正 6・一柳可遊 7・氏家貞和 

 

8・松平家乗 9・本多忠勝 10・本多忠政 11・松平定重 12・松平忠雅 13・松平忠刻 14・松平忠啓 

 

15・松平忠功 16・松平忠和 17・松平忠翼 18・松平忠堯 19・松平定永 20・松平定和 21・松平定猷

 

22・松平定敬 23・松平定教

【桑名藩藩主】

●桑名藩は、江戸時代伊勢国に存在した。越後国の中部にも領地があり柏崎陣屋が統治した。

 

初代・本多忠勝 2・本多忠政 3・松平定勝 4・松平定行 5・松平定綱 6・松平定良 7代・松平定重 8・松平忠雅 

 

9代・松平忠刻 10・松平忠啓 11・松平忠功  12・松平忠和 13代・松平忠翼 14・松平忠堯 15・松平定永 

 

16・松平定和 17・松平定猷 18代・松平定敬 19・松平定教

【津城城主】

●津城は、三重県津市にあった。安濃津城とも称する。

●4代目富田一白以降は、津藩の藩庁となり、藩主が城主となる。

初代・細野藤光 2代・細野藤敦 3代・織田信包 4代・富田一白 5代・富田信高 6代・藤堂高虎 7代・藤堂高次 

 

8代・藤堂高久 9代・藤堂高睦 10代・藤堂高敏 11代・藤堂高治 12代・藤堂高朗 13代・藤堂高悠 14代・藤堂高嶷 

 

15代・藤堂高兌 16代・藤堂高猷 17代・藤堂高潔 18代・藤堂高紹 19代・藤堂高廷 20代・藤堂高正

【津藩藩主】

●津藩は、伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩と呼ばれることもある。

●藩庁は安濃津城(津城)。伊賀国の上野城も所有した。

●石高は伊勢・伊賀2国を合わせた22万石(大坂の陣後、32万3000石に加増で大和国などにも飛び地領が存在)。

初代・富田一白 2・富田信高 3代・藤堂高虎 4代・藤堂高次 5代・藤堂高久 6代・藤堂高睦 7代・藤堂高敏 8代・藤堂高治 

 

9代・藤堂高朗 10代・藤堂高悠 11代・藤堂高嶷 12代・藤堂高兌 13代・藤堂高猷 14代・藤堂高潔 15代・藤堂高紹 

 

16代・藤堂高廷 17代・藤堂高正

【久居藩藩主】

●伊勢国久居周辺(三重県旧久居市、現在は合併により津市)を支配した津藩の支藩。

●津藩の第2代藩主・藤堂高次が隠居して家督を子の藤堂高久に譲ったとき、次男の藤堂高通に5万石を分与して津藩の支藩である久居藩を立藩した。しかし城主格の大名でありながら、築城を許可されず、久居陣屋と城下町を建設するに留まった。

●16代目・藤堂高邦の時に廃藩置県により、久居藩最後の藩主になる。

 

初代・藤堂高通 2代・藤堂高堅 3代・藤堂高陳 4代・藤堂高治 5代・藤堂高朗​ 6代・藤堂高雅 7代・藤堂高嶷 

 

8代・藤堂高朶 9代・藤堂高興 10代・藤堂高衡 11代・藤堂高矗 12代・藤堂高兌 13代・藤堂高邁 14代・藤堂高秭 

 

15代・藤堂高聴 16代・藤堂高邦

 

【志摩国】

【鳥羽藩歴代藩主 兼 鳥羽城歴代城主】

●鳥羽藩は、志摩国答志郡(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩。藩庁は鳥羽城に置かれた。

●鳥羽の浮城、また、城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、二色城、錦城とも呼ばれた。

・九鬼守隆 2・九鬼久隆 3・内藤忠重 4・内藤忠政 5・内藤忠勝 6・土井利益 7・松平乗邑 

 

8・板倉重治 9・松平光慈 10・稲垣昭賢 11・稲垣昭央 12・稲垣長以 13・稲垣長続 14・稲垣長剛

 

15・稲垣長明 16・稲垣長行 17・稲垣長敬

【黒野藩藩主】

●黒野藩は現在の岐阜県岐阜市黒野に存在した藩。

●豊臣氏の家臣であった加藤貞泰(加藤光泰の子)は、文禄4年(1595年)に美濃黒野に4万石を与えられた。

●関ヶ原の戦いで貞泰は最初、西軍に与していたがやがて東軍に寝返り、本戦では井伊直政に服属して活躍した。また、長束正家の居城である近江水口城攻撃でも戦功を挙げたため、戦後に所領を安堵され、黒野藩が成立した。

●貞泰は黒野城の築城や城下町の建設、楽市制度の導入や家老制度の整備、黒野別院(1996年黒野あそか苑建設に伴い廃寺)の建設などを行なって、藩政の基礎を固めた。しかし慶長15年(1610年)7月15日に伯耆国米子藩(6万石)へ加増移封され、黒野藩は廃藩となった。

●加藤貞泰一代限りの藩となった。

初代・加藤貞泰

【黒野城城主】

●慶長15年(1610年)7月15日に伯耆国米子藩(6万石)へ加増移封され、黒野城は廃城となり、加藤貞泰一代限りの城となった。

初代・加藤貞泰

 

 

【伯耆国】

【米子藩藩主

●米子藩は、伯耆国会見郡に存在した藩。藩庁は米子城(現在の鳥取県米子市久米町)。江戸時代初期の短期間のみ存続した。

●戦国時代、米子は尼子氏、毛利氏が奪い合いを繰り返す戦略上の重要拠点であった。豊臣氏時代、伯耆国は東西に二分され、西部は毛利氏の所領となり、毛利一族の吉川広家が月山富田城を拠点に支配していた。

●天正19年(1591年)、吉川広家は新たな拠点として米子の湊山に米子城の築城を開始した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は西軍につき、戦後に大幅減封処分を受けた。広家も周防岩国藩に移ることとなった。

●豊臣氏三中老の一人であった駿府城主中村一氏は、関ヶ原本戦直前の7月17日に病により急死しているが、死の前に駿府城下で徳川家康と会談しており、東軍に加わることを明らかにしていた。一氏の功績により、一氏の嫡子である一忠に3万石が加増されて移封が実現し、米子藩を立藩したのである。

●慶長14年(1609年)5月11日、一忠は20歳で急死した。一忠には3人の子供がいたが、領国の継承は認められず、中村氏は改易となった。

翌慶長15年(1610年)7月19日、美濃黒野藩主・加藤貞泰が2万石の加増を受け、6万石で米子に入部する。貞泰は大坂の陣において軍功を挙げたことから、元和3年(1617年)に伊予大洲藩に移され、米子藩は廃藩とり鳥取藩の支藩となった。

初代・中村一忠 2代・加藤貞泰

【米子城城主】

●米子城は、鳥取県米子市久米町にあった日本の城。久米城、湊山城ともいう。

●江戸時代初期は米子藩(伯耆藩)の藩庁であった。

初代・中村一忠 2代・加藤貞泰 3代・池田由之 4代・池田由成 5代・荒尾成利 6代・荒尾成直 7代・荒尾成重 8代・荒尾成倫 

 

9代・荒尾成昭 10代・荒尾成昌 11代・荒尾成煕 12代・荒尾成尚 13代・荒尾成緒 14代・荒尾成裕 15代・荒尾成富

【周防国】

【岩国城城主】

●岩国城は、安土桃山時代末期・1601年慶長6年)には吉川広家がこの地に赴任したと同時に山口県岩国市横山に築城された

●江戸時代に入ると、岩国領(後に岩国藩)の居城となり、歴代吉川氏が城主を勤めた。

初代・吉川広家 2代・吉川広正 3代・吉川広嘉 4代・吉川広紀 5代・吉川広逵 6代・吉川経永 7代・吉川経倫 

 

8代・吉川経忠 9代・吉川経賢 10代・吉川経礼 11代・吉川経章 12代・吉川経幹 13代・吉川経健 

 

14代・吉川元光 15代・吉川重喜 16代・吉川重幹

【岩国領領主

●長州藩の領地で、毛利元就の次男・元春が吉川興経の養子となり領主を治めるところから始まる。

初代・吉川元春 2代・吉川元長 3代・吉川広家 4代・吉川広正 5代・吉川広嘉 6代・吉川広紀 7代・吉川広逵 8代・吉川経永 

 

9代・吉川経倫 10代・吉川経忠 11代・吉川経賢 12代・吉川経礼 13代・吉川経章 

【岩国藩藩主

●経幹は慶応3年(1867年)3月20日に死去するが、毛利敬親の命令でその死が隠された。大政奉還後の慶応4年(1868年)3月13日、新政府によって岩国藩は独立した藩として正式に認められた。経幹は生存しているものとして城主格兼正式な藩主として認められ、岩国藩初代藩主となった。経幹は明治元年12月28日(1869年2月9日)に長男の経健に家督を譲って隠居した形となった。

●明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により岩国県となり、同年11月15日に山口県に編入された。

初代・吉川経幹 2代・吉川経健

 

【長門国】

【長府城城主】

●長府城は、長府陣屋、櫛崎城、串崎城、雄山城と称された。

●戦国時代、内藤隆春によって築城された。

●江戸時代に入ると、長府藩の藩庁が置かれ、毛利家歴代藩主が城主を務めた。

初代・内藤隆春 2代目・内藤元盛 3代・毛利秀元 4代・毛利光広 5代・毛利綱元 6代・毛利元朝 7代・毛利元矩 8代・毛利匡広 

 

9代・毛利師就 10代・毛利重就 11代・毛利匡満 12代・毛利匡芳 13代・毛利元義 14代・毛利元運 15代・毛利元周 

 

16代・毛利元敏

 

 

【長府藩藩主】

●現在の山口県下関市長府に江戸時代に存在した藩のひとつである。長州藩の支藩で、長門府中藩ともいう。

初代・毛利秀元 2代・毛利光広 3代・毛利綱元 4代・毛利元朝 5代・毛利元矩 6代・毛利匡広 7代・毛利師就 8代・毛利重就 

 

9代・毛利匡満 10代・毛利匡芳 11代・毛利元義 12代・毛利元運 13代・毛利元周 14代・毛利元敏 

【伊予国】

【大洲藩歴代藩主】

●大洲藩は、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(現在の伊予市を中心とした地域)などを領有した藩。藩庁は大洲城。支藩として新谷藩があった。

初代・脇坂安治 2・脇坂安元 3・加藤貞泰 4・加藤泰興 5・加藤泰恒 6・加藤泰統 7・加藤泰温 8・加藤泰衑

 

9・加藤泰武 10・加藤泰行 11・加藤泰候 12・加藤泰済 13・加藤泰幹 14・加藤泰祉 15・加藤泰秋

新谷藩歴代藩主〜新谷加藤家

●新谷藩は大洲藩の支藩である。藩庁として新谷(現・大洲市内)に新谷陣屋が置かれた。

●1623年(元和9年)、3代目大洲藩藩主・加藤貞泰の子で4代目大洲藩藩主・加藤泰興の弟・加藤直泰が幕府より1万石分知の内諾を得て成立した。

内紛の後、1639年(寛永16年)に藩内分知ということで決着し、1642年(寛永19年)に陣屋が新谷に完成した。藩内分知は本来は陪臣の扱いであるが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例である。

●明治4年(1871年)7月の廃藩置県により、新谷藩最後の藩主・加藤泰令を初代として創立する。

 

初代・加藤直泰 2代・加藤泰觚 3代・加藤泰貫 4代・加藤泰広 5代・加藤泰宦 6代・加藤泰賢 7代・加藤泰儔 8代・加藤泰理

 

9代・加藤泰令 10代・加藤泰成 11代・加藤泰勝 12代・加藤泰広

【肥前国】

肥前国は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の佐賀県と長崎県(壱岐・対馬を除く)にあたる。

【平戸藩藩主】

●平戸藩は、肥前国松浦郡と彼杵郡の一部、および壱岐国を領した藩。藩庁は平戸城(現在の長崎県平戸市)。

●松浦鎮信は天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐の折、旧領である北松浦郡・壱岐を安堵された。続いて慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで東軍に与した松浦氏は徳川家康より6万3千石の所領を安堵され、平戸藩が確立した。

初代・松浦鎮信 2・松浦久信 3・松浦隆信 4・松浦重信 5・松浦 棟 6・松浦篤信 7・松浦有信 8・松浦誠信 

 

9代・松浦 清 10・松浦 熈 11・松浦 曜 12・松浦 詮

 

【豊後国】

【佐伯藩藩主

●佐伯藩は、江戸時代に豊後海部郡に存在した藩の一つ。藩祖は毛利高政。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯市)に置かれた。

初代・毛利高政 2代・毛利高成 3代・毛利高直 4代・毛利高重 5代・毛利高久 6代・毛利高慶 7代・毛利高丘 8代・毛利高標 

 

9代・毛利高誠 10代・毛利高翰 11代・毛利高泰 12代・毛利高謙

 

​【岡藩】

岡藩は、江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった藩。藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)。領地は豊後国の大野郡・直入郡・大分郡にまたがり、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩と呼ばれることもある。

●中川清秀の次男・中川秀成から始まる豊後国岡藩中川家が、​歴代岡藩の藩主を務める。

 

初代・中川秀成 2代・中川久盛 3代・中川久清 4代・中川久恒 5代・中川久通 6代・中川久忠 7代・中川久慶 8代・中川久貞 

 

9代・中川久持 10代・中川久貴 11代・中川久教 12代・中川久昭 13代・中川久成

【伊予国】

【大洲城歴代城主】

●この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年 / 元弘元年(1331年)のことであると伝わる。別名・地蔵ヶ岳城。

●大洲藩の藩庁だったので、江戸時代・脇坂安治以降は藩主が城主を務める。

初代・宇都宮豊房 2代・宇都宮宗泰 3代・宇都宮泰輔 4代・宇都宮家綱 5代・宇都宮安綱 6代・宇都宮宣綱 7代・宇都宮清綱 

 

8代・宇都宮豊綱 9代・戸田勝隆 10代・藤堂高虎 11代・脇坂安治 12代・脇坂安元 13・加藤貞泰 14・加藤泰興 

 

15・加藤泰恒 16・加藤泰統 17・加藤泰温 18・加藤泰衑 19・加藤泰武 20・加藤泰行 21・加藤泰候 

 

22・加藤泰済  23・加藤泰幹 24・加藤泰祉 25・加藤泰秋

【肥前国】

肥前国は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の佐賀県と長崎県(壱岐・対馬を除く)にあたる。

【平戸城城主】

●平戸城は、長崎県平戸市肥前国松浦郡平戸)にあった日本の城江戸時代には平戸藩松浦氏居城であった。別名は亀岡城、日之嶽城。

●完成も間近となった慶長18年(1613年)、火災により大半を焼失した。自ら火を放ち城を破却したとも言われているが、理由としては、豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためとも、最愛の嗣子久信の死によるものともいわれている。 火災後、藩は再建をせず、5代藩主松浦棟によって元禄17年(1704年)2月に着工され、宝永4年(1707年)にほぼ完成した。

 

初代・松浦鎮信 2松浦 棟 3・松浦篤信 4・松浦有信 5・松浦誠信 6・松浦 清 7・松浦 熈  8・松浦 曜 

 

9・松浦 詮

【豊後国】

【佐伯城城主】

●佐伯藩は、江戸時代に豊後海部郡に存在した藩の一つ。藩祖は毛利高政。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯市)に置かれた。

初代・毛利高政 2代・毛利高成 3代・毛利高直 4代・毛利高重 5代・毛利高久 6代・毛利高慶 7代・毛利高丘 8代・毛利高標 

 

9代・毛利高誠 10代・毛利高翰 11代・毛利高泰 12代・毛利高謙

【岡城】

●岡城は、大分県竹田市大字竹田(豊後国直入郡竹田)にあった山城。臥牛城・豊後竹田城とも呼ばれる。

●鎌倉時代・1185年(文治元年)に緒方惟栄が築城。のち、志賀貞朝が1369年(応安2年)までの記録未詳のため、“代”は記さない。

志賀貞朝から中川秀成​の間未詳。

●岡藩の藩庁になり、豊後国岡藩中川家が城主になる。

初代・緒方惟栄 志賀貞朝 中川秀成 中川久盛 中川久清 中川久恒 中川久通 中川久忠 中川久慶 中川久貞 中川久持 

 

中川久貴 中川久教 中川久昭 中川久成

新羅王
 

初代・赫居世居西干 2代・南解次次雄 3代・儒理尼師今 4代・脱解尼師今 5代・婆娑尼師今 6代・祇摩尼師今 7代・逸聖尼師今 

 

8代・阿達羅尼師今 9代・伐休尼師今 10代・奈解尼師今 11代・助賁尼師今 12代・沾解尼師今 13代・味鄒尼師今 

 

14代・儒礼尼師今 15代・基臨尼師今 16代・訖解尼師今 17代・奈勿尼師今 18代・実聖尼師今 19代・訥祇麻立干 

 

20代・慈悲麻立干 21代・炤知麻立干 22代・智証麻立干 23代・法興王 24代・真興王 25代・真智王 26代・真平王 

 

27代・善徳女王 28代・真徳女王 29代・武烈王 30代・文武王 31代・神文王 32代・孝昭王 33代・聖徳王 34代・孝成王 

 

35代・景徳王 36代・恵恭王 37代・宣徳王 38代・元聖王 39代・昭聖王 40代・哀荘王 41代・憲徳王 42代・興徳王 

 

43代・僖康王 44代・閔哀王 45代・神武王 46代・文聖王 47代・憲安王 48代・景文王 49代・憲康王 50代・定康王 

 

51代・真聖女王 52代・孝恭王 53代・神徳王 54代・景明王 55代・景哀王 56代・敬順王 

【衆議院歴代議長】

●初代から38代目までは帝国議会。39代目から現在の国会

初代・中島信行  2代・星 亨 3代・楠本正隆 4代・楠本正隆 5代・楠本正隆 6代・鳩山和夫 7代・片岡健吉 8代・片岡健吉 

 

9代・片岡健吉 10代・片岡健吉 11代・河野廣中 12代・松田正久 13代・杉田定一 14代・長谷場純孝 15代・大岡育造 

 

16代・大岡育造 17代・長谷場純孝 18代・奥 繁三郎 19代・島田三郎 20代・大岡育造 21代・奥 繁三郎 22代・粕谷義三 

 

23代・粕谷義三 24代・森田 茂 25代・元田 肇 26代・川原茂輔 27代・堀切善兵衛 28代・藤澤幾之輔 29代・中村啓次郎 

 

30代・秋田 清 31代・濱田國松 32代・富田幸次郎 33代・小山松壽 34代・田子一民 35代・岡田忠彦 36代・島田俊雄 

 

37代・樋貝詮三 38代・山崎 猛 39代・松岡駒吉 40代・幣原喜重郎 41代・林 譲治 42代・大野伴睦 43代・大野伴睦 

 

44代・堤 康次郎 45代・松永 東 46代・益谷秀次 47代・星島二郎 48代・加藤鐐五郎 49代・清瀬一郎 50代・清瀬一郎 

 

51代・船田 中 52代・山口喜久一郎 53代・綾部健太郎 54代・石井光次郎 55代・松田竹千代 56代・船田 中 57代・中村梅吉 

 

58代・前尾繁三郎 59代・保利 茂 60代・灘尾弘吉 61代・灘尾弘吉 62代・福田 一 63代・福永健司 64代・坂田道太 

 

65代・原 健三郎 66代・田村 元 67代・櫻内義雄 68代・土井たか子 69代・伊藤宗一郎 70代・綿貫民輔 71代・河野洋平 

 

72代・河野洋平 73代・横路孝弘 74代・伊吹文明 75代・町村信孝 76代・大島理森 77代・大島理森 78代・細田博之 

 

79代・額賀福志郎 

【外国事務総裁】

小松宮彰仁親王

【外国事務総督】

山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤 宣嘉

【外国事務局督】

山階宮晃親王

【外国官知事】

伊達宗城 澤 宣嘉

【外務卿】

 

初代・澤 宣嘉 2代・岩倉具視 3代・副島種臣 

【外務事務総裁】

 

3代・副島種臣 

【外務卿】

4代・寺島宗則 5代・井上 馨 

 

【外務大臣】

5代・井上 馨 6代・伊藤博文 7代・大隈重信 8代・青木周蔵 9代・榎本武揚 10代・陸奥宗光 11代・西園寺公望 12代・大隈重信 

 

13代・西 徳二郎 14代・大隈重信 15代・青木周蔵 16代・加藤高明 17代・曾禰荒助 18代・小村壽太郎 19代・加藤高明 

 

20代・西園寺公望 21代・林 董 22代・寺内正毅 23代・小村壽太郎 24代・内田康哉 25代・桂 太郎 26代・加藤高明 

 

27代・牧野伸顕 28代・加藤高明 29代・大隈重信 30代・石井菊次郎 31代・寺内正毅 32代・本野一郎 33代・後藤新平 

 

34代・内田康哉 35代・山本権兵衛 36代・伊集院彦吉 37代・松井慶四郎 38代・幣原喜重郎 39代・田中義一 40代・幣原喜重郎

 

41代・犬養 毅 42代・芳澤謙吉 43代・斎藤 実 44代・内田康哉 45代・広田弘毅 46代・有田八郎 47代・林 銑十郎 

 

48代・佐藤尚武 49代・広田弘毅 50代・宇垣一成 51代・近衛文麿 52代・有田八郎 53代・阿部信行 54代・野村吉三郎 

 

55代・有田八郎 56代・松岡洋右 57代・豊田貞次郎 58代・東郷茂徳 59代・東條英機 60代・谷 正之 61代・重光 葵 

 

62代・鈴木貫太郎 63代・東郷茂徳 64代・重光 葵 65代・吉田 茂 66代・片山 哲 67代・芦田 均 68代・芦田 均 69代・吉田 茂 

 

70代・吉田 茂 71代・ 72代・岡崎勝男 73代・岡崎勝男 74代・岡崎勝男 75代・重光 葵 76代・重光 葵 77代・重光 葵 

 

78代・石橋湛山 79代・岸 信介 80代・岸 信介 81代・藤山愛一郎 82代・藤山愛一郎 83代・小坂善太郎 84代・小坂善太郎 

 

85代・大平正芳 86代・大平正芳 87代・椎名悦三郎 88代・椎名悦三郎 89代・三木武夫 90代・三木武夫 91代・佐藤栄作 

 

92代・愛知揆一 93代・愛知揆一 94代・福田赳夫 95代・大平正芳 96代・大平正芳 97代・木村俊夫 98代・宮澤喜一 

 

99代・小坂善太郎 100代・鳩山威一郎 101代・園田 直 102代・園田 直 103代・大来佐武郎 104代・伊東正義 105代・園田 直 

 

106代・櫻内義雄 107代・安倍晋太郎 108代・安倍晋太郎 109代・倉成 正 110代・宇野宗佑 111代・三塚 博 112代・中山太郎   

113代・中山太郎 114代・渡辺美智雄 115代・武藤嘉文 116代・羽田 孜 117代・柿澤弘治 118代・河野洋平 119代・池田行彦

 

120代・池田行彦 121代・小渕恵三 122代・高村正彦 123代・河野洋平 124代・河野洋平 125代・河野洋平 126代・田中眞紀子

 

127代・小泉純一郎 128代・川口順子 129代・川口順子 130代・町村信孝 131代・町村信孝 132代・麻生太郎 133代・麻生太郎

  

134代・町村信孝 135代・高村正彦 136代・中曽根弘文 137代・岡田克也 138代・岡田克也 139代・前原誠司 140代・枝野幸男

 

141代・松本剛明 142代・玄葉光一郎 143代・岸田文雄 144代・岸田文雄 145代・河野太郎 146代・河野太郎 147代・茂木敏充

 

148代・茂木敏充 149代・茂木敏充 150代・岸田文雄 151代・林 芳正 152代・上川陽子 

【農商務大臣】

●1881年(明治14年)に設立され、太政官制の下では農商務卿を長とし、内閣制度創設後は農商務大臣を長とした。所管分野は、主に農業・林業・水産業・商工業といった諸産業である。

●1925年(大正14年)、農林省と商工省へ分割された。

​初​代・谷 干城 初代・西郷従道 ​初代・山縣有朋 2代・土方久元 3代・黒田清隆 4代・井上 馨 5代・岩村通俊 6代・陸奥宗光 

 

7代・河野敏鎌 8代・佐野常民 9代・後藤象二郎 10代・榎本武揚 11代・大隈重信 12代・山田信道 13代・伊東巳代治 

 

14代・金子堅太郎 15代・大石正巳 16代・曾禰荒助 17代・林 有造 18代・平田東助 19代・清浦奎吾 20代・松岡康毅 

 

21代・大浦兼武 21代・小松原英太郎 22代・牧野伸顕 23代・仲小路廉 24代・山本達雄 25代・大浦兼武 26代・河野広中 

 

27代・仲小路廉 28代・山本達雄 29代・荒井賢太郎 30代・田健治郎 31代・岡野敬次郎 32代・前田利定 33代・高橋是清

 

 

 

【農商大臣】

●1943年(昭和18年)11月1日、農商省が設置された。明治から大正にかけて存在した「農商務省」と異なり、務の文字がないことに注意を要する。

これは、商工省の主要部門が軍需省に移動したため、商工省の残存部門を農林省に統合して「農商省」としたものである。終戦後、軍需省という組織は存在意義を喪失したため、1945年(昭和20年)8月26日、再び農林省と商工省とに分離・復活した。

​初代・山崎達之輔 2代・内田信也 3代・島田俊雄 4代・石黒忠篤 5代・千石興太郎

【征新羅大将軍】

●征新羅大将軍は、かつて日本で用いられた将軍の称号の一つで、新羅を征する将軍の意である。

●600年(推古8年)新羅に滅ぼされた任那日本府を救援する目的で、推古天皇に任命された外国出征の大将軍。

 

初代・蘇我境部摩理勢 2代目・来目皇子 3代目・当麻皇子 4代目・中臣国子 5代目・蘇我境部雄摩侶

​千家

●千利休を祖とする茶道の流派。

●現在は三波に分かれている。

 

表千家

 

裏千家

 

​武者小路千家​​​

​【表千家】

●表千家は、茶道流派の一つ。千利休を祖とする千家家督を継いだ千家流茶道の本家であり、宗家は京都市上京区小川通寺之内通上るにある。

●表千家を象徴する茶室不審菴の号の由来は「不審花開今日春」の語に由来しており、一般財団法人不審菴が管理している。

●現在の家元は、千利休から数えて、15代目の猶有斎千宗左である。

●代々の家元は紀州藩主(御三家)である紀州徳川家の茶頭として格式を誇り、紀州徳川家と強いつながりがあった三井家とも縁があった。

●本家の表千家に対して分家の裏千家の名は、表通り(寺之内通)に南面した不審菴の裏に今日庵(裏千家)があることに由来する。現在は南北の小川通に西面して両家の正面があり左右に並んでいる。

 

​初代・千利休 2代目・千少庵 3代目・千宗旦 4代目・江岑宗左 5代目・良休宗左 6代目・原叟宗左 7代目・千宗左 

 

8代目・件翁宗左 9代目・曠叔宗左 10代目・祥翁宗左 11代目・瑞翁宗左 12代目・敬翁宗左 13代目・無盡宗左 14代目・千宗左 

 

15代目・千宗左

【裏千家】

裏千家は、茶道流派の一つ。「裏千家」の語は、家元とその家族らで構成される宗家を指すことも、「一般財団法人今日庵」などの法人組織を指すことも、弟子・門下生を含む流派組織を指すこともある。茶道諸流派中最大の流派の一つである。

裏千家の名称は、千利休からの家督を継いだ本家表千家(不審菴)に対し、今日庵が寺之内通(東西の通りの名)からみて裏(昔は表千家の正面が寺之内通南側に面していた)にあることから。宗家は京都市上京区小川寺之内上ルにあり、表千家宗家と隣接している。その茶室・今日庵は裏千家の代名詞でもある。

今日庵の由来は、宗旦が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚に、所用があるとして留守にした宗旦が明日の来席を請うた際に残した清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」の書き付けから。

「千家」といえば本来、本家の表千家のことであったが、裏千家の活躍もあり、近年になって分家である武者小路千家と併せて「三千家」というようになった。

 

初代・千利休 2代目・千少庵 3代目・千宗旦 4代目・千宗室 5代目・常叟宗室 6代目・泰叟宗室 7代目・竺叟宗室 

8代目・一燈宗室 9代目・石翁宗室 10代目・柏叟宗室 11代目・精中宗室 12代目・直叟宗室 13代目・鉄中宗室 14代目・碩叟宗室 

15代目・汎叟宗室 16代目・玄黙宗室

【武者小路千家】

●武者小路千家は、茶道流派の一つ。千利休からの家督を継いだ本家表千家に対し、分家である裏千家と併せて、三千家といわれる。

●茶室の装飾は他の流派と比べてシンプルで簡潔にし、茶事は無駄のない合理的な所作を重視している。

●宗家は京都市上京区武者小路通り小川東入にあり、この所在地が武者小路千家の名の由来である。

●官休庵は、現在では武者小路千家の茶室を指す場合と、財団法人官休庵を指す場合がある。

 

​初代・千利休 2代目・千少庵 3代目・千宗旦 4代目・一翁宗守 5代目・文叔宗守 6代目・真伯宗守 7代目・堅叟宗守 

8代目・休翁宗守 9代目・仁翁宗守 10代目・全道宗守 11代目・一叟宗守 12代目・聴松宗守 13代目・徳翁宗守 14代目・千宗守 

15代目・汎叟宗室 16代目・玄黙宗室

bottom of page