【蘇我馬子】
8代目大臣:572年(敏達天皇元年)〜626年(推古天皇34年5月20日)
生年月日:?〜626年6月19日(推古天皇34年5月20日)
干支:未詳
星座:未詳
時代:古墳時代、飛鳥時代
治世:第30代・敏達天皇
第31代・用明天皇
第32代・崇峻天皇
第33代・推古天皇
墓所:石舞台古墳
名前:蘇我馬子(ソガノウマコ)
関連氏族:皇族、蘇賀氏、蘇我氏、宗我氏
母:未詳
妹:蘇我小姉君(ソガノオアネノキミ)- 第29代・欽明天皇妃
弟:蘇我境部摩理勢(ソガノサカイベノマリセ)- 初代征新羅大将軍
弟:蘇我小祚(ソガノオソ)- 岸田氏の祖、桜井臣、小治田朝臣の祖
妻:未詳
●敏達朝で大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えて、蘇我氏の全盛時代を築いた。
●敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となる。
敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国(一説によると赤穂郡矢野庄)で高句麗の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。
敏達天皇14年2月(585年)、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を難波の堀江に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。
同年6月、馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。
同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒した。
●大化の改新時(645年)に成立する氏制度が成立する前で、氏・カバネは未成立であるため、「蘇賀氏、蘇我氏、宗我氏」というウジ名のような冠称は記紀編纂時の氏姓制度の知識に基づいて付されたものになる。
●“韓子”や“高麗”など、朝鮮半島と関係する文字が見える。祖先・武内宿禰は神功皇后が起こした朝鮮征伐に関わった中心人物でもあるので、朝鮮半島と関連性が考えられる。また、“高麗”を駒とし、馬子という名前。さらには、蘇我氏の本貫である、奈良県橿原市曽我にある南曽我遺跡からは、5世紀後半から末頃の馬墓が発見されており、韓子が騎馬戦で活躍した時期と時期が重なっているなど、馬との関係が強いことが伺える。
【妻:物部布都姫】
生年月日:未詳
干支:未詳
星座:未詳
時代:古墳時代、飛鳥時代
治世:第30代・敏達天皇
第31代・用明天皇
第32代・崇峻天皇
第33代・推古天皇
関連氏族:物部氏、弓削氏
男子:蘇我蝦夷(ソガノエミシ)
女子:蘇我刀自古郎女(ソガノトジコノイラツメ)- 聖徳太子妃
●物部贄子と離縁したのち、蘇我馬子の妻になる。

【妻:未詳】
生年月日:未詳
干支:未詳
星座:未詳
時代:古墳時代、飛鳥時代
治世:第30代・敏達天皇
第31代・用明天皇
第32代・崇峻天皇
第33代・推古天皇
父:未詳
母:未詳
女子:蘇我河上娘(ソガノカワカミノイラツメ)- 第32代・崇峻天皇の女御