【蘇我稲目】
7代目大臣:536年(宣化天皇元年)〜570年3月22日(欽明天皇32年3月1日)
生年月日:506年(武烈天皇8年)〜570年3月22日(欽明天皇32年3月1日)
干支:丙戌年
星座:未詳
時代:古墳時代
治世:第28代・宣化天皇
第29代・欽明天皇
関連氏族:皇族、蘇賀氏、蘇我氏、宗我氏
母:未詳
妻:未詳
●欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた(仏教公伝)。天皇は仏像を礼拝することの可否を群臣に求めた。稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」(「西蕃諸國一皆禮之 豐秋日本豈獨背也」)と答えた。これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」(「我國家之王天下者 恆以天地社稷百八十神 春夏秋冬 祭拜為事 方今改拜蕃神 恐致國神之怒」)と反対した。天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許した。稲目は小墾田に仏像を安置して礼拝した。その後、疫病が起こり、民に死する者が多く出た。尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられた。すると、風もないのに大殿が炎上してしまった。しかし、これで仏教が完全に排除されたわけではなく、翌欽明天皇14年(553年)には海中から樟木を引き上げて、天皇は仏像2体を造らせている。
稲目は財務に手腕を振るい、王辰爾を遣わして船賦を数えて記録させた。また、天皇の命により諸国に屯倉を設置している。
仏教受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争った。決着はつかず、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれた。
●大化の改新時(645年)に成立する氏制度が成立する前で、氏・カバネは未成立であるため、「蘇賀氏、蘇我氏、宗我氏」というウジ名のような冠称は記紀編纂時の氏姓制度の知識に基づいて付されたものになる。
●“韓子”や“高麗”など、朝鮮半島と関係する文字が見える。祖先・武内宿禰は神功皇后が起こした朝鮮征伐に関わった中心人物でもあるので、朝鮮半島と関連性が考えられる。また、“高麗”を駒とし、馬子という名前。さらには、蘇我氏の本貫である、奈良県橿原市曽我にある南曽我遺跡からは、5世紀後半から末頃の馬墓が発見されており、韓子が騎馬戦で活躍した時期と時期が重なっているなど、馬との関係が強いことが伺える。
【妻:美女媛】
生年月日:未詳
干支:未詳
星座:未詳
時代:古墳時代
治世:第28代・宣化天皇
第29代・欽明天皇
名前:美女媛(オミナヒメ)
関連氏族:高句麗の女性
父:未詳
母:未詳
【妻:吾田子】
生年月日:未詳
干支:未詳
星座:未詳
時代:古墳時代
治世:第28代・宣化天皇
第29代・欽明天皇
名前:吾田子(アタコ)
関連氏族:高句麗の女性
父:未詳
母:未詳
●吾田子は美女媛の従女
●欽明天皇23年8月。欽明天皇は大将軍大伴連狭手彦を遣わし兵数万を率いさせて高句麗を討たせた。
狭手彦は百済の計を用いて高句麗を打ち破った。その王は垣を越えて逃げた。
狭手彦は遂に勝ちに乗じて宮に入り、全ての珍宝・金品・七織帳・鉄屋を得て帰還した。七織帳は天皇に献上した。
甲二領・金飾刀二口・銅鏤鍾三口・五色の幡二竿・美女媛・その従女吾田子を蘇我稲目宿禰大臣に送った。
蘇我稲目宿禰大臣は二女を召し入れて妻とし、軽曲殿に置いた。
【妻:未詳】
生年月日:未詳
干支:未詳
星座:未詳
時代:古墳時代
治世:第28代・宣化天皇
第29代・欽明天皇
父:未詳
母:未詳
女子:蘇我堅塩媛(ソガノキタシヒメ)- 第29代・欽明天皇妃
男子:蘇我馬子(ソガノウマコ)
女子:蘇我小姉君(ソガノオアネノキミ)- 第29代・欽明天皇妃
男子:蘇我境部摩理勢(ソガノサカイベノマリセ)- 初代征新羅大将軍