【弓削道鏡】
2代目人臣太政大臣:765年(天平宝字9年 or 天平神護元年)〜766年(天平神護2年)
生年月日:700年(文武天皇4年)〜772年5月13日(宝亀3年4月7日)
干支:庚子年
星座:未詳
時代:飛鳥時代、奈良時代
治世:第47代・淳仁天皇
第48代・称徳天皇
関係氏族:物部氏、弓削氏
母:未詳
●守屋の母親の姓・弓削を名乗る。
●平 将門、足利尊氏と共に日本の三代悪党と言われる。
●法相宗の僧侶。
●761年(天平宝字5年)平城宮改修のために都を一時的に近江国保良宮に移した際、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。淳仁天皇は常にこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となった。
●763年(天平宝字7年)、慈訓に代わって少僧都に任じられ、翌764年(天平宝字8年)には藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため、765年(天平宝字9年)道鏡が太政大臣禅師に任ぜられた。翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。
●道鏡の後ろ盾を受け、弟の浄人が8年間で従二位・大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達した。これに加えて、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。
大宰主神の中臣習宜阿曾麻呂が宇佐神宮より道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があったと伝えた。しかし、和気清麻呂が勅使として宇佐神宮に参向した後この神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった。
●神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国 / 現・栃木県)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。
道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族4名(弟・弓削浄人とその息子の広方、広田、広津)が捕えられて土佐国に配流された。
【妻:藤子姫】
生年月日:未詳
干支:未詳
星座:未詳
時代:飛鳥時代、奈良時代
治世:第47代・淳仁天皇
第48代・称徳天皇
名前:藤子姫(フジコヒメ)
父:未詳
母:未詳
●熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」という民話がある。孝謙天皇を祀るが、当地では「お藤姫」と称したという。