八重垣神社
名称:八重垣神社(ヤエガキジンジャ)
別名:佐久左神社(サクサジンジャ)
佐久佐社(サクサシャ)
祭神:素戔嗚(スサノオ)
稲田姫(イナダヒメ)
大国主(オオクニヌシ)
青幡佐久佐日古(アオハタサクサヒコ)
所在地:島根県松江市佐草町227
●素戔嗚の神詠とされる「八雲立つ、出雲八重垣、夫婦籠みに、八重垣作る、その八重垣を」にちなんだ社名によって、出雲大社に次いで縁結びの神として全国的に知られている。
●しかし、八重垣神社は『出雲国風土記』にも『延喜式』にもなく、永禄八年(1565)の毛利元就の判物(出雲国造家文書)に「八重垣神社楽田」とみえるのが記録上の初見である。
●風土記意宇郡の大草郷の条に「大草郷、郡家の南西二里一百二十歩なり。須佐乎命の御子、青幡佐久佐丁壮命坐せり。故、大草という」とあり、同書意宇郡の在神祇官社に「佐久佐社」があることから、八重垣神社は江戸時代から諸書によって『延喜式』の「佐久佐神社」に比定された。
●中世中期の康暦・文安・康正(1397-1457)頃の古文書には安国寺領として「佐草社」がみえるが、八重垣神社および 社家の佐草氏に伝わる古文書にはすべて八重垣社とある。
●『出雲国風土記鈔(天和三年:1683)』の大原郡海潮須我社の 説明に「須佐之男命が大蛇退治のあと、ここに宮を作り、稲田姫を娶って須我湯山主命(大己貴命の異名)が生れた。 そこでこの三神をこの里に合わせ祭った。のちに東北四里ばかり離れた意宇郡佐草村に遷したのが今の八重垣社である」 と記され、さらに『雲陽誌(享保二年:1717)』の須我社の条にも同じ記述がある。これらによれば、八重垣神社は 大原郡海潮里須我の地から現社地に遷った神社だというのである。
●なお、八重垣神社は中世に安国寺領であったため、出雲国造家とはつながりがなかったらしいが、近世になって「意宇六社」に含まれ、出遷宮は千家国造家、本遷宮は北島国造家が執行した。