【出雲国造について】
●出雲国を統治した国造。
●国造の最初の設置はは神武朝の記事に見え、ヤマト王権が勢力を拡大し始めた崇神朝に四道将軍の遠征ルートに沿って本格的な設置が開始された。
●出雲国造(姓は臣)は、国譲りに応じた大国主神を祀るため、天日隅宮(=出雲大社)の祭祀を担った天之菩卑能命を出雲国造の始祖、その子神の建比良鳥命を2代目とする。
●『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、第10代崇神天皇の御代、天穂日命の11世孫・宇迦都久怒を初代出雲国造に定めたとある。
●千家家が伝承をまとめた『出雲国造伝統略』によれば、初代出雲国造は17代目・出雲宮向からであるという。
●氏族の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ。
●後裔に土師氏が出ており、武蔵国造、阿波国造、伊甚国造、新治国造、上海上国造、下海上国造、千葉国造、山氏と同族。
●第10代崇神天皇の条には、国造の祖の飯入根が兄の出雲振根に独断で神宝を朝廷に献上し、これに憤慨した出雲振根は、弟を水浴に誘って偽の刀とすり替えて騙し討ちした。天皇は吉備津彦と武渟川別を派遣して出雲振根を誅殺してしまったとされ、『国造本紀』には飯入根の子が出雲国造に任命されたと伝わる記事が見られるように、上古の出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、ヤマト王権下において出雲国造に任ぜられたものである。
●第12代景行天皇の条にも、小碓命(=倭建命)が地名を名に負う出雲建を殺した話が見える。
●国造制は7世紀半ばの大化の改新以後、全国的に廃止される方向に進み、『続日本紀』によれば第43代元明天皇の和銅元年(708年)に、忌部宿禰子首が新たに出雲国守に任ぜられた。これは、国造制から律令に基づく国郡里制に支配体制が移行したことを示す。しかし、出雲国造は紀伊国造などとともに、ごく一部の例外的な氏族として国造の称号存続を許され、『続日本紀』の第42代文武天皇2年(698年) 三月の条に、「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三親等以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が記され、また、『類聚三代格』に「慶雲三年(706年)以来令國造帯郡領」とあって、律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗るとともに、出雲国東部にあたる意宇郡(おうぐん)の郡司の職に任じられていた。
●意宇郡司職を支族に譲った後の出雲氏本家は、意宇郡山代から出雲郡杵築郷(現在の出雲大社周辺)に拠点を移し、国造本拠に鎮座した元々の国造奉斎社である意宇の熊野大社と併せて行っていた出雲大社における祭祀に専念するようになったと考えられている。その後、現在に至るまで、出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が出雲国造を世襲している。また、国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式が行われ、現在でも熊野大社との関係を維持している。
●47代目出雲国造(千家家)/ 48代目出雲国造(北島家)・宗孝から神職として祭儀のみ行うようになる。
●南北朝時代の第53代国造・出雲孝時は、子の六郎貞孝を寵愛し、国造を継がせようと考えていた。しかし、孝時の母である覚日尼(塩冶頼泰の娘、家系は宇多源氏)から「三郎清孝は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせるべきだ」と説得を受け、清孝を後継者とした。その後、清孝が第54代国造となったが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の五郎孝宗を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永2年(興国3年/1343年)、国造職を孝宗に譲ることとした。これに対して貞孝は、自分に国造職を譲るのが本来であると猛烈に反発し、神事を中止し、軍勢を集めて社殿に立て篭もるなど、紛争状態となった。
事態を重く見た守護代の吉田厳覚は、清孝・孝宗側と貞孝側の両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和与状を結ばせた。こうして康永3年(興国4年/1344年)6月5日)以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称して国造家が並立し、19世紀後半の幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していた。
明治時代には、千家氏・北島氏ともに華族に列して男爵として遇されたが、出雲大社自体は内務省神社局の傘下(社格は官幣大社)となり、千家氏は出雲大社教、北島氏は出雲教と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担った。戦後、神社が国家管理を離れた後は、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、「宗教法人出雲大社教」の宗祠として、宮司は千家氏が担う。
●こうした経緯で出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝であったが、康永年間(1340年頃)以降、千家氏と北島氏の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになった。
●血統は現代にまで続いている。
●千家家と北島家の系統と違いがあるので両方掲載する。
●出雲地域からは大量の銅鐸や銅剣などが出土した遺跡もある。
【千家家】
本姓:出雲国造出雲氏千家家
●千家家と北島家では、24代・果安から若干の違いがあるので、千家家の系図に17代・出雲宮向から掲載する。
●千家家では55代目(北島家では56代目)から北島家と袂を別つ。
17代・出雲宮向 18代・出雲布奈 19代・出雲布禰 20代・出雲意波久 21代・出雲美許 22代・出雲叡屋 23代・出雲帯許
24代・出雲果安 25代・出雲広嶋 26代・出雲弟山 27代・出雲益方 28代・出雲国上 29代・出雲国成 30代・出雲人長
31代・出雲千国 32代・出雲兼連 33代・出雲旅人 34代・出雲豊持 35代・出雲時信 36代・出雲常助 37代・出雲氏弘
38代・出雲春年 39代・出雲吉忠 40代・出雲国明 41代・出雲国経 42代・出雲頼兼 43代・出雲宗房 44代・出雲兼宗
45代・出雲兼忠 46代・出雲兼経 47代・出雲宗孝 48代・出雲孝房 49代・出雲孝綱 50代・出雲政孝 51代・出雲義孝
52代・出雲泰孝 53代・出雲孝時 54代・出雲清孝 55代・千家孝宗 56代・千家直国 57代・千家高国 58代・千家持国
59代・千家直信 60代・千家高俊 61代・千家豊俊 62代・千家高勝 63代・千家直勝 64代・千家慶勝 65代・千家義広
66代・千家元勝 67代・千家尊能 68代・千家尊光 69代・千家尊房 70代・千家直治 71代・千家宗敏 72代・千家広満
73代・千家豊昌 74代・千家豊実 75代・千家俊勝 76代・千家俊秀 77代・千家尊之 78代・千家尊孫 79代・千家尊澄
【北島家】
本姓:出雲国造出雲氏嫡流北島家
●千家家と北島家では、24代・千国から若干の違いがあるので、北島家の系図に17代・出雲宮向から掲載する。
●北島家では56代目(千家家では55代目)から千家家と袂を別つ。
●1882年(明治15年)、76代・北島脩孝が出雲教を創設。以降、北島家当主が教長を努めている。
17代・出雲宮向 18代・出雲布奈 19代・出雲布禰 20代・出雲意波久 21代・出雲美許 22代・出雲叡屋 23代・出雲帯許
24代・出雲千国 25代・出雲兼連 26代・出雲果安 27代・出雲広嶋 28代・出雲弟山 29代・出雲益方 30代・出雲国上
31代・出雲国成 32代・出雲人長 33代・出雲門起 34代・出雲旅人 35代・出雲豊持 36代・出雲時信 37代・出雲常助
38代・出雲氏弘 39代・出雲春年 40代・出雲吉忠 41代・出雲国明 42代・出雲国経 43代・出雲頼兼 44代・出雲宗房
45代・出雲兼宗 46代・出雲兼忠 47代・出雲兼経 48代・出雲宗孝 49代・出雲孝房 50代・出雲孝綱 51代・出雲政孝
52代・出雲義孝 53代・出雲泰孝 54代・出雲孝時 55代・出雲清孝 56代・北島貞孝 57代・北島資孝 58代・北島幸孝
59代・北島高孝 60代・北島利孝 61代・北島雅孝 62代・北島秀孝 63代・北島久孝 64代・北島広孝 65代・北島晴孝
66代・北島恒孝 67代・北島兼孝 68代・北島道孝 69代・北島直孝 70代・北島惟孝 71代・北島明孝 72代・北島宣孝
73代・北島起孝 74代・北島従孝 75代・北島全孝 76代・北島脩孝 77代・北島斉孝 78代・北島貴孝 79代・北島英孝
80代・北島建孝
【石王氏】
本姓:出雲国造出雲氏支流石王氏
●出雲兼経(千家家46代目 / 北島家47代目)の次男・兼平が石王を名乗ることに始まる。
●出雲国飯石郡(現・島根県)にある須佐神社祠官家。
●他に、滋賀県にある近江水口天神社の社家にもみられる。
●須佐神社、出雲國風土記によれば、須佐能袁命が「この国は小さい国であるがよい処なので、自分の名前は木石ではなく土地につける」と仰られ、御自ら御魂を鎮め置いた霊蹟であり、その御由緒の深遠な事は他に類を見ない須佐能袁命の御本社とも言え、御魂を鎮め置いた時を創建とした場合、弥生時代と考えられる。
【武蔵国造】
本姓:出雲国造支流无邪志国造
●无邪志国造は、2代目出雲国造・武夷鳥の子・出雲建子の子・神狭から数えて10世孫・兄多毛比が初代と言われる。
●无邪志国は、第13代・成務天皇の御代に兄多毛比が任命された。
●无邪志国と胸刺国は同じ国という説と別の国という説があるが、支配地域がほぼ同じであることから、このサイトでは同じ国とする。また、武蔵国、無邪志国、牟邪志国などの表記がある。
初代・兄多毛比 2代・伊狭知
【波伯国造】
本姓:出雲国造支流无邪志国造支流波伯国造
●波伯(ハハキ)国造は現・鳥取県倉吉市を支配した。
●第13代・成務天皇の御代、初代目无邪志国造・兄多毛比の子である大八木足尼が初代波伯国造になる。
●律令制に伴い、波伯国造がいた領域に、7世紀に伯耆国を設置したとあるので、地名より波伯国造の名前が先にあったこちがわかる。